武将、冬の北アルプス往復 近藤幸夫の新・山へ行こう

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 今年のNHK大河ドラマの主人公は、徳川家康です。その家康に会うため、戦国武将が厳冬期の北アルプスを越えたという伝説が残っています。伝説の主は、越中(現在の富山県)の国主・佐々成政(さっさなりまさ)。400年以上も前、果たしてそんな冒険が可能だったのでしょうか。成政に詳しい、長野県大町市文化財センターの学芸員、関悟志さん(47)に伝説の詳細を聞きました。

 成政は、織田信長の有能な家臣として知られ、越中の富山城主にまで上り詰めました。その成政の運命は、主君の信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」をきっかけに大きく変わりました。

 信長の死後、家督争いが起こりました。豊臣秀吉と反秀吉勢力の対立です。反秀吉勢力についた成政は、窮地に陥ります。打開策として考えたのが、反秀吉勢力の筆頭、家康の存在です。

 家康は秀吉に対抗するため、信長の次男信雄(のぶかつ)と組んで天正12(1584)年の「小牧・長久手の戦い」で挙兵しましたが、秀吉と講和して戦いは終結します。そして天正12年12月。成政は、秀吉に対しての再挙兵を求めるため、越中から信州を越えて浜松城静岡県浜松市)の家康に会いに行くのです。

 成政は、最も敵の目を避けられる隠密行動として厳冬期の北アルプスを越えるルートをとったとされ、「さらさら越え」の伝説として残っているのです。

 少人数で富山城を出た成政は、富山県側から厳冬期の立山連峰に入山。ザラ峠(2348メートル)から、いったん黒部川まで下り、今度は針ノ木峠(2536メートル)を越えて大町・松本に至るルートです。

 厳冬期のこのルートは、積雪が深いほか、雪崩の危険もあります。現在でも、厳冬期の黒部横断はトップレベルの登山家のみが挑戦可能な難コースなのです。

 同時代の一次資料の文献で、史実として残っているのは、成政が富山城を出発した後、信州を経て浜松までを往復したことです。ルートの詳細を記した資料は、まだ見つかっていないそうです。

 では、なぜ冬の北アルプス越えの伝説が残っているのでしょうか。

 関さんは「成政は、勇猛果敢な武将として有名です。成政なら冬の北アルプスを越えたのではないか、という期待があったのだと思います」と説明します。

 しかし、全く荒唐無稽な内容かといえば、そうでもないのです。このルートの越中側、信州側の猟師たちは、当時から真冬も北アルプスに入りカモシカなどを捕獲していたと考えられます。わらや獣の毛皮で作った防寒具を着け、かんじきを履いて雪山で行動できる技術。彼らを案内人にすれば、「さらさら越え」は、可能だったのかもしれません。

 成政のルートについては、北アルプス越えのほか、岐阜・長野県境の安房峠を越える「飛驒ルート」と日本海側をたどり新潟県糸魚川市から信州に入る「糸魚川ルート」の二つの説があります。最近の研究では、飛驒ルートが有力視されています。

 ただ、どのコースをとったにせよ、厳冬期に約1カ月半で、富山から浜松を往復したのは、当時としては驚異的な記録です。命がけの成政の訴えに、どうする家康。史実だと、家康は再挙兵をしませんでした。

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