九州の古墳に独自性 規模や形、価値観が左右か 文献と照合し推定

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編集委員・中村俊介
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 古墳時代とは、その名称に墓制を冠する特異な時代だった。おびただしい墳墓が日本列島の大部分を覆い、均一で整然とした秩序が強調されてきた。が、実は地域ごとに多様な個性と歴史的背景があったらしい。地方から中央や全国をのぞくと、どんな古墳時代像が見えるか。福岡県立九州歴史資料館(小郡市)の探究が続く。

古墳を介した列島を貫く規制、本当に存在したのか

 近畿に大和王権が台頭する3世紀半ば以降500年近くの間、国内各地には前方後円墳や方墳、円墳が大小様々なバリエーションで築かれた。そこには規模と墳形で被葬者や地域勢力の地位を厳格にランク付けする「前方後円墳体制」が想定されており、すっかり通説となった。

 北部九州も例外ではない。瀬戸内海で近畿と直結する福岡県北東部には、中央と共通する副葬品を納めた石塚山古墳(苅田町)など初期の大型前方後円墳が点在し、古墳文化の“上陸地”として九州他地域に先駆けてこの体制に組み込まれたようにも見える。

 だが、こんな古墳を介した列島を貫く規制は本当に存在したのか。昨秋、福岡市内であった九歴古代史研究フォーラムで、国立歴史民俗博物館の松木武彦教授は疑問を投げかけた。そもそも古墳の規模は、墳丘に葬る遺体をより高く天に近づけようとした結果、必然的に巨大化したにすぎない、というのだ。

 「筑紫(福岡)には中期まで…

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