女性アイドルはなぜ「僕」と歌う? 日本語が生む「ジェンダー交差」

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ポップスみおつくし 増田聡・大阪公立大教授

ポップミュージックの世界を識者に縦横無尽に語ってもらう夕刊コラム「ポップスみおつくし」。今回、大阪公立大教授の増田聡さんは、女性歌手が「僕」「俺」などと使うような、歌い手と歌の1人称の性別が合わない「ジェンダー交差歌唱」という概念について掘り下げて考えます。

 クロス・ジェンダード・パフォーマンス(ジェンダー交差歌唱、CGP)という概念がある。男性歌手が女性一人称主語の、あるいは女性歌手が男性一人称主語の歌詞の曲を歌うことを指す。日本語はジェンダー化された言語であるため、「僕」「あたし」などどのような主語を選択するかにより、歌詞は容易に女性主体/男性主体が「歌う」言葉となる。一方で英語や中国語、韓国語などでは、日本語ほどジェンダーを示すことはない(英語では一人称は性別を示さない“I”であるし、“I love him”は容易に“I love her”に置き換え可能である)ため、このようなCGPは例外的ケースを除いてほぼ生じることがない。演歌などにしばしば見られるCGPは日本語歌詞特有の現象である。

 この概念に関する重要論文は、社会学者の中河伸俊による「転身歌唱の近代」https://researchmap.jp/read0182984/published_papers/33171061別ウインドウで開きます(1999)だ。中河は歌手と歌詞主体のジェンダー交差がどのような上演論的意味を生むかについて詳細に検討し、欧米的な(歌唱主体と歌詞主体のジェンダーが一致する)「素朴リアリズムのドラマツルギー」に対し、CGPを許容する日本的な上演慣行を区別する。関心ある読者はぜひ原論文に触れて欲しい(ネットで容易に読むことができる)が、中河のCGPに関する論旨を単純化して述べるなら、演歌のような「日本的な」ジャンルに近づくほどCGPが現れやすいが、ロックやフォークのような「欧米的な」ジャンルに寄るほどCGPが避けられる傾向にある、ということになるだろう。

 英米音楽の影響下に発展した70年代のニューミュージックにおいても、かぐや姫「神田川」やグレープ「精霊流し」などのCGP曲は、われわれに「演歌的」な印象を与える。「素朴リアリズムのドラマツルギー」、すなわち歌手の主体と、それが歌う言葉が示す主体の「(ジェンダー的なものを含む)一致」の感覚こそが、西洋近代的な主体性をわれわれに感じさせ、逆にその「不一致」はわれわれに日本的なものを感じさせる。たかがポップスの聞こえ方ひとつであれ、日本社会に住まうわれわれの感性はそのような西洋近代と日本的なものとの相克のなかに置かれている。その事実がCGPにはありありと現れているのだ。CGPとは、ジェンダー示差性が強い日本語という言語が、歌唱主体と歌詞主体との一致を要求しない演出慣行と出会うことによって生じる、非グローバルかつドメスティックな現象である。故にこの現象は日本大衆文化の「後進性」に過ぎないものとして捉えられ、まともに扱われる対象とは考えられてこなかった。そこに本格的に学術的な視線が向けられるようになったのは中河論文以降の20年余りのことにすぎない。

 もちろんいうまでもなく、こ…

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    長島美紀
    (SDGsジャパン 理事)
    2023年8月14日17時54分 投稿
    【視点】

    長年疑問だった、何で女性歌手が「僕」と歌うんだろう、という自分の中でのもやもやに応えてくれた記事です。記事にある中河伸俊「転身歌唱の近代」では、日本語はきわめてジェンダー化された言語であるという前提のもとでの、以下の指摘が、なぜ「僕」や「だ

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