念仏のように頭にこびりついた名刺 親戚は米国の肩書で広島にきた

有料記事核といのちを考える

戸田和敬
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聞きたかったこと 広島

 米国側の肩書で広島市内に訪れた親戚のことを、どうしても家族のようには思えなかった。原爆で両親ら7人を亡くした牧野ミヤ子さん(88)=広島県廿日市市=は、ずっとそうだった。昨年、親類宅で見つかった古いセピア色の写真が、心をときほぐしてくれるまで――。

 1945年8月6日、11歳だった牧野さんは、両親らと現広島市安佐南区の知人宅に疎開していた。ただ、両親はその日の早朝、市中心部に出かけていた。両親が帰ってくると信じていたが、一向に戻ってこない。

 3日後、両親を捜しに広瀬町(現広島市中区)まで8キロを歩いた。あめ細工のように垂れ下がった建物の鉄骨や、多くの遺体を目にした。「親族の可能性があると思っても、死体は凝視できなかった」。両親と叔母ら5人の行方は今も分からない。

 翌9月、さらなる災難が牧野…

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