野球嫌いだった私が島を出て、大分商のプラカードを持つまでの3年間

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山口裕起
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(19日、第95回記念選抜高校野球大会2回戦 栃木・作新学院8―6大分商)

 宙に浮いているような感覚だった。

 ふわふわした芝生とさらさらな黒土。お客さんの拍手が、内野席の銀傘に反響してどんどん大きくなって届いてくる。

 「夢の舞台で歩けて、一生忘れられない日になりました」

 18日の開会式。大分商のマネジャー寺下沙帆さんはチームの先頭を歩いた。入場行進で校名が呼ばれると、「大分商」のプラカードを握る手に思わず力が入った。セーラー服に帽子をかぶり、甲子園球場を一歩一歩、踏みしめた。

 大分県北東部、国東半島沖に浮かぶ姫島で生まれた。

 県内で唯一の村、姫島村の人口は約1600人で小学校と中学校が一つずつ。自分と同じ学年の子どもは13人しかいなかった。

 小さいころから海や原っぱで体を動かすのが好きで、小学3年から始めたバレーボールは中学3年まで7年間続けた。

 野球は嫌いだった。

 三つ上の兄・諒星(りょうせい)さん(20)は小学生のころから野球一筋、父は兄の少年野球チームの監督をしていた。

 家のテレビはプロ野球中継が流れ、夕食時も野球の話題ばかり。

 「『また野球かよ、いい加減にしてよ』と思いながらご飯を食べていました」

 気になるドラマやバラエティー番組が見られない。学校で友達の話についていけず、野球を恨んだこともあった。

 仲間だと思っていた母もいつのまにか、野球の方に引き込まれていくのがわかった。

 なのに……。

 15歳の春、中学を卒業する…

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