第4回曽我部真裕さん「放送の自由は特殊な自由」 規制は誰がすべきなのか

有料記事放送法めぐる総務省文書問題

聞き手・野城千穂
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 京大大学院教授(憲法・情報法)の曽我部真裕さん(48)は、2015年に当時の高市早苗総務相の答弁で放送法に新たな解釈が加えられたことについて、解釈の内容よりもそのプロセスに問題があると指摘する。放送の内容に一定の制約が課せられることはやむを得ないが、政治の思惑による介入は許されない、と説く曽我部さんは、欧州の事例を引いて「適切な規制」のありかたを提示する。

 放送局の番組編集について放送法が定める「政治的公平」。その解釈に追加を求め、安倍政権当時の礒崎陽輔首相補佐官が総務省とやりとりしていた経緯を記したとされる行政文書の存在が明らかになった。文書から見えてくる解釈追加の経緯や狙い、そして政治と放送の関係について、どんな問題があるのか。各界の識者に聞いた。

 ――今回公表された総務省の文書をどう読みましたか

 解釈の内容というよりは、そのプロセスのほうに問題性を感じました。

 放送法の解釈は総務大臣の所管ですので、総務大臣がしかるべき手続きで解釈を示すことは、所管大臣として当然です。ただそのプロセスが、正規の権限や手続きの外で、政治的な思惑とタイミングで行われていた。不透明な形で「介入」がなされた点で問題があると思います。

 他方で、そもそも放送に政治的公平を要求すること自体がおかしい、という議論もあります。つまり放送は新聞と同じで自由なメディアなのだから、政府介入はすべておかしいという議論ですが、後に説明するように放送制度は特殊であり、政治的公平を要求すること自体は許されると考えれば、今のような解釈はそんなにおかしくないと思います。

放送内容の規制「そんなにおかしくない」

 ――16年の政府統一見解では、従来の解釈通りに政治的公平を「一つの番組ではなく、放送事業者の番組全体を見て判断する」とした上で、「国論を二分するような政治課題について、放送事業者が、一方の政治的見解を取り上げず、殊更に、他の政治的見解のみを取り上げて、それを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」などの「極端な場合」は、一つの番組のみでも「政治的に公平であることを確保しているとは認められない」としました。政府や総務省は従来の解釈を「補充的に説明」したと主張していますが、事実上の解釈変更に当たるという見方もあります。曽我部さんが「おかしくはない」と考えるのはなぜですか

 結局、総合判断だからです。挙げられたのは非常に極端な場合だと思います。あくまで原則は全体で見る。ただ少数の、極めて限られた場合に、一つの番組でも違反になる場合はありうる。理屈上はおかしくはないと思います。

 変更かどうかは、力点の置き方の違いかもしれません。従前は「極端な場合」という例外を強調していなかっただけかもしれないですし、全体で判断すると言ったときに、「いかなる場合も全体で判断する」という含意まであったかは分かりません。

 極端な番組があれば、ほかの番組でより強くバランスを取らなければいけないわけですが、それがなされていなければ、全体として見たときに違反になり得る原因はその極端な番組ということになります。ですので、全体で見るか、一つの極端な番組を見るかはそこまで大きな違いではないかと思います。

 ――番組全体であれ個別であれ、放送法が政治的公平を要求すること自体は、憲法21条の保障する表現や言論の自由と照らしてどう解釈しますか

 これは少数説だと思いますが、一般的に言うと、放送内容に関する規制など、一定の要請があることはそんなにおかしくないと思います。

曽我部さんは、放送内容の規制があることは「そんなにおかしくない」と言います。表現の自由を定めた憲法に違反しないのでしょうか。記事の後半ではその理由や、規制をするならばどのような形がいいのかについて解説するとともに、海外と比べた日本のテレビの特徴にも話が広がります。

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