上毛三山の遺跡から望む、山頂に沈む日 景観考古学で分析

角津栄一
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 上毛三山の山麓(さんろく)にある縄文時代の遺跡は、四季の節目を示す夏至冬至、春分、秋分(二至二分)に、太陽が山頂に沈む情景を望む場所にある――。その規則性が、景観考古学という研究により明らかになった。古代人は何を思い、その場所を選んだのか。

 研究を手がけたのは、大工原豊・国学院大学栃木短大准教授だ。

 大工原氏は、環状列石や大型古墳など儀礼、祭祀(さいし)的要素が強い大規模なモニュメント(記念物)が「なぜその場所に造られたのか」を主な研究テーマとしている。景観考古学(Landscape Archaeology)は、古代人がどのような景観を意識し、どのような設計思想にもとづき場所を選んだのか調べる学問だ。

 研究によると、規則性を見いだせる遺跡として、「天神原遺跡」(群馬県安中市)がある。

 上毛三山の妙義山から東に約10キロ。縄文時代後期中葉(約4千年前)~後葉(約3500年前)に、墓の周りに石を配置した「配石墓」や「環状列石」がつくられた。儀礼や祭祀の場としても利用されていたとみられる。

 ここからは、春分、秋分に、妙義山の中心にある「金洞山」に太陽が沈む様子を観測できる。冬至には、南西方向にある「大桁山」に日が沈む光景を望める。大桁山は、笠のようになだらかな山容で古代の信仰対象となった「神奈備(かんなび)」の地形だ。また、立てられた石が3本並んだ「列石」をつなぐ線を西に延ばすと妙義山の峰にたどりつく。

 大工原氏は、この場所には他にも重要な意義があったと指摘する。

 「縄文人にとって、妙義山は天上の『あの世』を意識させる神秘的なヤマとして認識されていた。ここからは妙義山の上にもう一つヤマが出現する『磯部蜃気楼(しんきろう)』を観測できる」

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 「田篠中原遺跡」(富岡市)からは、夏至に「浅間山」、春分、秋分は大桁山に沈む夕日が見られる。この遺跡には天神原遺跡と同じく環状列石がある。

 「野村遺跡」(安中市)からは冬至に妙義山に日没する光景が、「行沢大竹遺跡」(富岡市)からは春分、秋分に妙義山に日没する風景が見えるという。

 大工原氏は、春分と秋分の頃は「太陽は1日で0・5度と大きく動き、観測する位置が少しずれただけで日没はまったく違う場所に見える」と指摘。「縄文人は、二至二分を意識してモニュメントを構築していた」とみる。

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 榛名山赤城山に日没する光景を望む位置にも、同じように縄文の遺跡がある。

 また、古墳時代の遺跡にも同様の規則性が見られるという。榛名山麓にある「浅間山古墳」(高崎市)は二分は妙義山に、夏至は浅間山に日没を望める。

 「井出二子山古墳」(同)は冬至の日没が荒船山、「綿貫観音山古墳」(同)は、二分の日没が妙義山の頂と重なるという。

 文化財保護法では、「文化的景観」を文化財として位置づけている。人の営みが造り出した棚田や杉林などの風景や、古代を起源とする歴史を持つ場などが対象だ。国は保護すべき「重要文化的景観」として、約70カ所を選定している(昨年3月時点)。

 大工原氏は、遺跡と、そこから見る光景もあわせて文化的景観の一つだと考えている。「その場に立ち、二至二分にヤマに沈む美しい日没を眺める時、太古の人々と体験を共有し、同じ感動が得られる」(角津栄一)

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