震災2カ月後、泣いて歌った校歌 報徳学園に全員野球が生まれた瞬間

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山口裕起
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(1日、第95回記念選抜高校野球大会決勝 山梨学院7―3兵庫・報徳学園)

 阪神甲子園球場から直線距離で5キロあまり。桜が咲き誇る武庫川の河川敷沿いに報徳学園はある。

 休養日だった3月30日、校舎脇のグラウンドでは4カ所に分かれて、打撃練習が行われていた。

 ケージの中にベンチ入りしている18人の姿はない。アルプス席で応援する控えの3年生たちが、一球一球、フルスイングしていた。

 メンバーの選手たちの「ナイスバッティング」の声に、控えの選手たちは「明日打てよ」「頼むぞ」と返していた。

 全員野球。

 報徳学園に、根付いている信条だ。

 翌日に大阪桐蔭との準決勝が控えていようとも、レギュラーだけが練習をし、控えはそのサポートに回る、などという考え方はとらない。2、3年生計97人が分け隔てなく、バットを振り、球を追う。

 大角健二監督(42)は言う。

 「チーム全員で戦うのが報徳の野球。それはいつでも同じです」

 原点は、28年前にある。

 1995年1月17日の阪神淡路大震災。学校のある兵庫県西宮市では1146人(震災関連死及び市外で亡くなった市民12人を含む)が犠牲になった。

 練習再開は約1カ月後。参加できる部員だけが亀裂が走るグラウンドに集まった。片隅で1時間ほどキャッチボールなどをした。

 当時の監督だった永田裕治さん(59)=静岡・日大三島監督=は振り返る。

 「たった1時間のボール遊び…

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