対話ってそもそもなんだと思いますか?
新言論サイト「Re:Ron」の「論破でも言葉だけでもない 哲学者・永井玲衣さんが問う『対話』の形」での永井さんの問いに、多くの意見や質問が寄せられました。それをもとに、永井さんに改めてお話をうかがい、「Re:」として発信します。
浮かび上がってきたのは「大丈夫じゃない社会」。そして対話の限界と可能性でした。
私たちは対話に何を期待しているのか
【Re:】おたよりを全部読んで共通して思い浮かんだのは、「私たちは対話に何を担ってもらいたいと思っているんだろう」という問いでした。
個人個人の文脈が濃厚にあるなかで、たぶん色んな期待があって、共通合意のようなものを目指している人、仕事をより良くしようとしている人もいれば、自分を見いだしていく人もいる。一緒にもろくなっていく経験自体を味わいたい、という人もいる。
結構バラバラなのが興味深かったです。その期待の内容をまずは知る、ということがおそらく対話を始める一歩なのかもしれない、という感覚を得ました。
私の中で対話の場というのは、自分たちが「大丈夫だ」と思える場を作る、ということ。反対から言えば「なんで私たちの生きる社会って大丈夫じゃないのか」ということでもあります。
◇「聞いて! 私を見て!」と、自分のことのみ語りたがる人が多く感じる。相手の話を聞き合うことが出来る場がもっと必要かと思いました(60代)
◇対話もそうですが、そもそも効率化、合理化が最優先されて、奥深く理解したり、意識付けされたりすることがないような。疑問を持つこと自体が少ない気がします(40代)
◇正否や善悪にとらわれず、言いよどみながらも応え合う風景は、少なくなりました。その背景の一つは、みんな対面で話し合うことにうっすら怯(おび)えを感じているのかなと思います(50代)
【Re:】「対面が怖い」というコロナ禍以降の新しく根深い現象も含めて、色々な「大丈夫じゃなさ」が皆さんにある。今、何が大丈夫じゃないんだろうということをまなざし、そうじゃなくなる場を作ろうとすると、対話の輪郭ができてくると思うんです。
私は哲学対話で約束ごとをします。「よく聞く」とか「(結論を)人それぞれで終わらせない」とか。あとは対話を進める上で、「分からなくなっていい」「黙ってもいい」と。実はそれは私たちが普段とらわれている「大丈夫じゃなさ」の裏返しなんです。
私たちは、しゃべりすぎているし、急ぎすぎているし、良いことを言わないといけない、と思っている。哲学対話ではある意味、それをひっくり返す。そういう仕方で、それぞれの現場で「対話」を試みることができるのかもしれません。
どうやったら対話が成立するか
◇会話・対話とは、互いに心を開き虚心坦懐(きょしんたんかい)に言葉を介して考えや思いをキャッチボールすることで、互いに高め合い深め合うものだと思います。しかし、会議・交渉などにおいては別で、時間的制限もある中で目的を達しなければならず、時には相手を言いくるめることさえ必要です。できれば会議・交渉も会話・対話のようにやりたいとは思いますが、やはり、禁物のように感じます(60代)
【Re:】ここにも対話に対する期待がある。対話は「心を開いて互いに深め合うこと」で、会議や交渉でも深め合いたい、という期待を持っているのだと思います。
じゃあなぜそれが成り立たな…
- 【視点】
「私たちは、しゃべりすぎているし、急ぎすぎているし、良いことを言わないといけない、と思っている」という永井玲衣さんの言葉を目にした時、「承認欲求」の4文字が私の脳内を駆け巡りました。 人は誰しも、昔もいまも、自分が認められたい、他者に
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