第3回山根基世、アナウンサー人生最大の試練 「働く女」の代表なのに

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聞き手・平賀拓史
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 《1980年春、新番組「ニュースワイド」のキャスターに起用された》

 メインキャスターは森本毅郎さん。朝の情報番組を大改編してできた、鳴り物入りの番組でした。

 目立つ立場に置かれました。重い責任を負わされると落ち込むタイプの私には、向いていなかったな。きつい2年間でした。

 私は週後半の担当で、前半は頼近美津子さんでした。東京外大卒の多才な女性で、当時から有名なアナウンサー。「頼近派か山根派か」。スポーツ紙に見出しが躍りました。ああ、女性アナってこうやって比べられるんだなと。後年アナウンス室長になってからは、新人研修で「比べ合ったら終わりです」と言うようにしました。

アナウンサーの山根基世さんが半生を振り返る連載「放送人であるために、探した言葉」の全4回の3回目です。

 《84年からは朝の情報番組「おはようジャーナル」を担当する》

 家庭を顧みない「会社人間」、望まぬ妊娠、7年以上単身赴任から帰ってこない夫……。現在にもつながるテーマを取り上げた番組でした。私が取材に出る機会もたくさんありました。

 「ニュースワイド」は「キャスター」という肩書きで華々しく見えたかもしれないけど、実際やったのは天気とか小さいコーナーがほとんど。だからここで自由に取材させてくれた経験はとてもありがたかった。社会課題に目を向けるきっかけを与えてくれました。

 《86年に結婚。医師・戸張幾生さんとは講演会の司会を務めたことがきっかけで縁ができた》

 たまたま一緒になった帰り道で、「またいずれ食事でも」と誘われて。たまに食事に出かけるようになった。どれもおいしくて、外れ無し。5年間付き合って結婚しました。私は38歳、夫は49歳。「行き倒れ結婚」なんて言っていましたが、食い倒れ結婚かしら。

 アナウンサーとしては山根姓で通しました。NHKでは初めてだったようで、詰問されましたが。区役所の窓口で、書類にあった「山根」の文字が斜線で消されたとき、生理的な痛みのようなものを感じた。あのときのことは忘れません。

第一視聴者として、原稿練った

 《1984年から2年間、「小さな旅」の旅人を務めた》

 当時の私は、いわゆる「女性枠」の仕事を全て経験してしまったらしいんです。それでこの仕事も振られたみたいですね。

 地方の町や村を歩き、志を高くして生きるたくさんの人に触れた。東京のスタジオで相手から何かを引き出そうとする、インタビューみたいな聞き方になってしまいがちでした。でもそれではいけない。人々の生活する空間で感じたことを素直に表現してこそ、心の通う会話ができる。学ぶことの多い番組でした。

 《その後、「驚異の小宇宙 人体」(89年)や「太平記」(91年)「映像の世紀」(95、96年)など、大型番組のナレーションが次々と舞い込む》

 「人体」のスタッフは、何年もかけて、彼ら自身が専門家になってしまうくらいの勉強量で番組を作りました。専門用語も多い。でもアナウンサーは第一視聴者です。私に分からなければ視聴者には伝わらない。専門的で正確な言葉でも、難解で伝わらないときはある。全部かみ砕いて説明してもらいました。

 当時はアナウンサーが番組内容に意見することを許さない人も多かった。でも「人体」の林勝彦チーフプロデューサーはその意義を考えて、根気よくつきあってくれました。原稿を直すための日も設けて、林さんやディレクターと話し合い、書き直していきました。

 南北朝時代を初めて舞台にした大河ドラマ「太平記」のナレーションもありました。なんで私なのかわからなくて悩みました。大河ドラマって、声量のある人が力強く朗々とやるものでしょう。私の声では無理なのではと。

 でも、それこそが制作陣の狙…

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    長野智子
    (キャスター・ジャーナリスト)
    2023年5月24日10時48分 投稿
    【視点】

    まさにテレビは社会の映し鏡だなと感じました。山根さんの辿ってきたキャリアは、社会における女性の立場変化とシンクロしているなと。今から15年以上前ですが、男性メインキャスターの「隣の人」が定位置だった私が関係者に「いつか私もメインキャスターに

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