傷つけられても、差別に「やめろ」 スポーツの力信じ、人生かけ闘う
2020年5月25日、米ミネアポリスで黒人のジョージ・フロイドさんが白人警官に首を圧迫されて死亡した事件が起きて3年が経った。人種差別への問題意識が改めて高まったものの、状況が抜本的に改善したとは言いがたい。それでも社会の変化を信じ、差別と向き合う人がいる。米セントラルフロリダ大の教授で「スポーツにおける多様性と倫理に関する研究所(TIDES)」所長を務める人権活動家、リチャード・ラプチックさん(77)。半世紀以上の活動を支えた思いを聞いた。
重ねてきた講演は3千回以上、執筆した記事は600以上に上る。ラプチックさんは「スポーツは社会に変化をもたらす手段になる」と語る。
「生涯の友」との出会い
1945年に米ニューヨーク州で生まれた。
人種差別に初めて触れたのは、プロバスケットボールで殿堂入り選手だった父ジョーさんが、NBAニックスのヘッドコーチを務めていたときだ。ジョーさんは1950年、NBA史上初めて黒人選手を入団させた。「父は先駆者になろうとしたのではなく、正しいことをしようとしただけだと思う。でも明らかに黒人選手と契約してほしくない人はいた」
そのころ、ラプチックさんが自宅の窓の外を見ると、父の姿をかたどった人形のようなものが、木にぶら下げられて揺れていた。「意味を理解するには私は幼すぎた」。人種差別を背景とした嫌がらせだった。
ラプチックさん自身が人種差別と向き合ったのは15歳のとき。バスケ選手として、全米トップ水準の高校の夏季キャンプに招待されていた。
「ある白人選手が、1人だけ参加していた黒人に人種差別用語を3日間、ずっと浴びせていた。我慢できなくなってその白人に『やめろ』と言った」。ラプチックさんは殴り倒された。
助けようとした黒人の青年は、後にNBAでMVPを6度も受賞するスター選手、カリーム・アブドゥルジャバーさんだった。
「その日から生涯の友情が始まった。私という15歳の白人が突然、都会に住むアフリカ系米国人の若者の視点を手に入れることになった。彼やほかの有色人種が受けてきた人種差別を垣間見ることができた。人生をかけて公民権運動をしようと決めた」
腹部に刻まれた差別用語
ラプチックさんは、70年代…
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