和歌などの古典を詩心あふれる英語で表現する翻訳家・詩人のピーター・J・マクミランさんが、長年住み慣れた東京を離れ、京都に移住しました。すみかに選んだのは百人一首ゆかりの小倉山にある竹林に囲まれた古民家。古(いにしえ)の歌人たちが過ごした場所で、万葉集のすべての歌を詩的な英語に訳す大がかりなプロジェクトを始めました。
――京都に移住したきっかけはコロナ禍だったそうですね。
ピーター・J・マクミラン 翻訳家・詩人 アイルランド生まれ。ユニバーシティー・カレッジ・ダブリン大院で哲学を学び、米国で英文学の博士号を取得。プリンストン、コロンビア、オックスフォードの各大学で客員研究員。東京大非常勤講師。著書に「日本の古典を英語で読む」「英語で味わう万葉集」など。朝日新聞で「星の林に」を連載中。
生活が全部オンラインになったので、東京にいる必要がなくなりました。生まれ育ったのはすごい田舎だったので、もう少し静かな所で身の丈に合った生き方をしようかなと。探していたら、ずっと住みたいと夢抱いていた小倉山のふもとにあるこの物件がフェイスブックのページで紹介されていた。絶対手に入れたいと思い、そのまま新幹線に乗って3時間後には京都に着いていました。明治時代に建てられた古民家を移築したものです。道路の向かい側が小倉山です。ここから百人一首を世界に発信していく、住むべきところが見つかったかなと。西行井戸とか松尾芭蕉ゆかりの落柿舎(らくししゃ)とか。芭蕉が滞在中につづったのが「嵯峨日記」です。日本文学の古典の聖地に住むことで、筆も進みます。落ち着いた生活ができると思ったら、逆に忙しくなった。
――アイルランドの田舎で文学にはどう出会ったのですか。
私は8人きょうだいの4番目。母がすごく文学好きで、小説を一緒に読んだり、薦められた本を読んだりしていました。D・H・ローレンス、バージニア・ウルフとか。競走馬についても詳しくて、航空会社の乗務員を辞めた後、地元紙に連載を持っていたほどです。散文がすごくきれいで、いつまでも私のお手本です。3年前に亡くなった後、夢の中に一度だけ現れて「人を泣かせるくらい感動させる文章を書きなさい」と。父は競走馬のトレーナー、宝石会社を経て、亡くなるまで約30年、画商をしていました。家中の壁にいつも絵が掛かっていた。
――日本とかかわるようになったきっかけは。
米国で博士課程を修了後、たまたま哲学と英文学を教える大学のポストがあったのが日本だった。世界地図をみたらアイルランドから一番遠かったのですごい冒険ができると思いました。その冒険はいまなお続いています。その後、研究員として米国に渡り、コロンビア大学で日本文学者、文芸評論家のドナルド・キーン先生から松尾芭蕉の「奥の細道」の授業を受けた。日本に住むべきか、アイルランドに帰るべきか悩んだ時期があって「歌集を1冊訳せば、その答えが出るかもしれない」と思って始めたのが百人一首の英訳です。日本研究者の加藤アイリーンさんに添削していただいた。真っ赤になった原稿は私の一番の宝物です。できたものを彼女がキーン先生に見せたら、絶賛してくれて、コロンビア大学から出版できた。米国と日本で賞ももらい、翻訳する免許をもらった気分になりました。
――外国人に日本の文化が分かるわけがないと言われたこともあるとか。
当時はみんなそういうことをいう時代だった。日本語を話す外国人は怪しいとかね。悲しいというよりは悔しい気持ちですね。その悔しさからできたのが百人一首の英訳です。しかし今では、日本人でも日本の文化を共有していない。古典文化の世界から切り離されていると感じます。日本の古典に精通していた最後の小説家は三島由紀夫さんかな。村上春樹さんはむしろ米国の文学に影響を受けていますよね。翻訳をする動機は外国に日本文化を紹介するはずでしたが、訳せば訳すほど日本の出版社から依頼が来る。英語を読むことで異文化体験をしながら英語の勉強をしつつ、自国の文化に異なった視点から向き合えると思います。
――西洋と東洋の美意識の違いはどのあたりにありますか。
西洋の場合、シェークスピアもモナリザもベートーベンも美は神様に近いもの、永遠に生きるものとされています。日本の場合、桜が散る、消えていくことのはかなさが美しい。ちょっと発想が逆なんです。でも、その概念は西洋人にも十分理解できると思います。翻訳者としては、どんなに違った概念でも翻訳できないものはないと思っています。
――万葉集の全訳プロジェク…