「東の綱島」桃の一大産地はなぜ消えた 衰退の歴史、映像で探る

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進藤健一
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 「西の岡山、東の綱島」。日本有数の産地・岡山と桃の収穫高日本一を競った綱島(横浜市港北区)はかつて、そううたわれた。しかし今、再開発が進み、高層マンションが建つこの街にその面影はない。「綱島ブランド」がなぜ歴史の表舞台から消え、その後、どんなてんまつをたどったのか――。地元のケーブルテレビ局が番組を制作し、その謎に迫っている。

 番組は「綱島桃物語~日月桃(じつげつとう)の奇跡~」。手掛けたのは、港北ふるさとテレビ局代表で映像作家の伊藤幸晴さん(62)だ。

 南に鶴見川の本流、東の矢上川、西の早渕川の支流に囲まれた綱島。かつて鶴見川は「暴れ川」と呼ばれ、中流域にある綱島は川の氾濫(はんらん)に何度も苦しめられてきた。明治期に桃の栽培に挑戦したのが、旧南綱島村名主の池谷(いけのや)道太郎さん(13代当主)だった。

津田梅子の父から苗木

 「津田塾大学」創始者、津田梅子さんの父で農学者の津田仙さんから数種類の桃の苗木を入手。研究を重ね、1907(明治40)年に病害に強い桃を見つけた。仏教経典「無量寿経」の一節「天下和順、日月清明」から「日月桃」と名付けた。

 甘さに加え、ほどよい酸味の…

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