松本零士さんが夢見た、座布団ビフテキ ちばてつやさんら別れの言葉
「銀河鉄道999」「宇宙戦艦ヤマト」「男おいどん」などで知られ、2月に85歳で亡くなった漫画家の松本零士さんのお別れの会が3日、東京都内で開かれた。
会は報道陣には非公開。実行委員会によると、実行委員長の漫画家ちばてつやさんや、アニメ「999」で鉄郎とメーテルをそれぞれ演じた声優の野沢雅子さんと池田昌子さん、元JAXA宇宙飛行士の山崎直子さんが「お別れの言葉」を述べたという。それぞれの言葉は次の通り。
ちばてつやさん「ザブトンのようなビフテキを一緒に」
ちばてつやさん
松本零士さん
私があなたと初めて会ったのは、今からもう65年前、二人ともまだ高校を卒業した次の年。あなたは、北九州の小倉から夜汽車にのって上京したばかりで夜行列車の煙のススでしょうか、ちょっとホッペタが黒く汚れていて、でもまだ学生服の詰襟(つめえり)が似合う、紅顔の美少年でした。その頃私もマンガ家としてデビューしたばっかりで、食うや食わず。お互いにまだ売れない新人漫画家同士でね。
文京区本郷三丁目に東京大学があります。あなたはその赤門のすぐ近くの西陽(にしび)が差す、家賃の安い四畳半の「山越館」という下宿屋に居を構えて出版社に持ち込むための原稿を描きながら、いつも、いつも、お腹(なか)を空(す)かせていましたね。でもあなたの、青雲の志は人一倍高く、いつかそのうちに大きな連載を勝ち取って、原稿料もらったら超一流の三つ星レストランでザブトンのようなステーキを食ってやる。その時にはちばちゃんにも食わせてやるぞ…と二人で夢を語りつつ…ちょっと色っぽいヌード写真や、18禁の色っぽい本をこっそり見せ合いながら、可愛い女の子や、美しい女性を描く練習に励む毎日でした。
やがて二人ともまあ紆余(うよ)曲折、短編を描いたり、イラストを描いたり、忙しい先輩漫画家のお手伝いをしたりして、苦労しながらも修業の成果が少しずつ上がって、なんとか一人前の漫画家として生活ができるようになっていきますけども…そうそう、松本さんはね親しくしていたのに私には全く内緒で、いつのまにか、同じ本郷に住んでいた牧美也子さんという美しい女性漫画家の伴侶を得て、どっしりと家庭を構えてからは順風満帆、その後『セクサロイド』や『男おいどん』などに続き、『キャプテンハーロック』、『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』。手がける作品が次々と大ヒット。マンガ界も大きく飛躍し、週刊誌の時代に入って、二人とも寝る時間のないほど締め切りに追われる生活が続いていましたけども1979年(昭和54年)、我々がちょうど四十歳になる頃でしたけど、戦闘機とか戦艦とか、宇宙船だとかコックピットだとか…そういうメカニックが大好きな松本さんがある日突然電話をかけてきて「超音速旅客機のコンコルドに乗りたいぞ。」と言い出して、コンコルドに乗って宇宙に近い成層圏を飛んで世界一周するからちばちゃんも一緒に行こう…と誘われました。
私は、どちらかというと成層圏もコンコルドも、メカニックも、全く興味がない人間だったし、それより何より、仕事も人一倍遅いものでしたから、週刊誌の締め切りで七転八倒していたので絶対無理だとお断りしたのですけれども…もうツアーも組んで、旅券からホテルから全て予約したから、と。もういろいろと寝耳に水で、松本さんの強引さに呆(あき)れて、あんなに慌てたことはありませんでしたよ。でも、詳しく話を聞くと、私も松本さんもちょっと親しくしていた女流漫画家さんの萩尾望都さんや『宇宙戦艦ヤマト』の森雪の声を担当した麻上洋子さん(現・一龍斎春水さん)も同行するけどどうする?って聞かれて、悩みましたけど…まあやむなく連載を休むことにして「仕方がなく」ですけども同行することになってしまいました。
その後も一緒に草野球をやったり、運動会をやったり、ゴルフをやったり、お互いに仕事が遅くて時間がない中、ずいぶん無理をして仕事もして、遊びもしたものです。
80歳を過ぎてからもあなたはいつも元気で、「ちばちゃん、そのうちに宇宙船に乗りたいな。宇宙船に乗って、無重力のなかで座布団みたいなビフテキを食ってみたい」と元気いっぱいでしたけど。
2年程(ほど)前、イタリアのトリノで松本さんがファンに会うイベントの旅先でちょっと体調を崩された、というニュースを聞いた時は、本当に肝を潰しました。
帰国後はしっかり養生してずいぶんお元気になったと聞いていましたけども、このコロナの時代になってしまい、なかなか会うことも難しい中、今年の2月13日、奥様の牧美也子さんと、お嬢さまの摩紀子さんに見守られて、あなたのいつも夢に見る、大好きな大好きな銀河の世界に旅立っていきました。
いまさら私がいうまでもなく、あなたが漫画やアニメーションに遺(のこ)してくれた業績は本当に偉大で、旭日小綬章、紫綬褒章だとか、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ受賞だとか、挙げたらキリがありませんね。
大昔…北九州の小倉から夜汽車に乗って上京した詰襟の少年が、85年間の人生で素晴らしい大きな足跡を残したことに・・・・・今はみんなが感謝しそのことを心から賞賛(しょうさん)し、お別れを惜しむために…こんな天気の悪い中、こんなにも大勢のファンや、仲間や、関係者が集まってくれましたよ。
松本さん、今あなたとお別れするのはとっても辛いですが…
もう、誰がどうみてもこれ以上ない、充実した人生、世界中の人から拍手喝采をされる、大往生でした。
長い間お疲れ様。
私もね、もう少しだけ頑張ったら、松本さんの居る銀河系を追いかけて行きますから。
そしたら今度こそ、ザブトンのようなビフテキを一緒に食べようね。
じゃあいってらっしゃい。
野沢雅子さん「きっと先生は999号で……」
野沢雅子さん(池田昌子さんと登壇)
松本先生、先生が旅に出られてから3カ月が過ぎました。私の中では、いつもの先生の笑顔が、すぐに浮かんで来ますので、まだピンと来ていません。
先生と初めてお会いしたのは45年程前、『銀河鉄道999』で、星野鉄郎をやらせていただいた時でした。親しみやすい笑顔で気さくに話しかけて下さったので、すぐに打ち解けることができ、安心したことを今でも、よく覚えています。先生との思い出はかぞえきれない程、たくさんありますが、やはり『銀河鉄道999』の全国横断のイベントでしょうか。
日本中をご一緒に回りましたね。イベント先ではいつも夜遅くまでスタッフの皆さんと飲んでいらっしゃって、お話が大好きな先生の周りには、常にたくさんの人の笑顔があったことを昨日のことのように思い出します。
2年少し前には、取材でご一緒して、また、お会いしましょうねとお話ししていたのに、もう旅に出かけてしまうだなんてちょっと早いのではありませんか?
寂しい気持ちは消えませんが、きっと先生は999号で車掌さんに会って、旅先でも好きな漫画を描いては楽しく過ごしていらっしゃるのではないかと思います。
宇宙から、こちらの世界を見守っていてくださいね。
先生と鉄郎に会えて私、本当に良かった。本当にありがとうございました。
山崎直子さん「作品と出会っていなければ、今の私はいない」
山崎直子さん
松本零士先生
先生は、今、星の海を旅されていらっしゃるのですね。遠くに旅立たれてしまった寂しさが募りますが、でも、空を見上げればそこにいらっしゃるような、叱咤(しった)激励して下さっているような気も致します。
先生の作品と出会っていなければ、今の私はいませんでした。物心がつき始めた頃に『宇宙戦艦ヤマト』に出会ったことは強烈な思い出で、一緒に観(み)ていた兄と共に、広大な宇宙の舞台にワクワク、ハラハラしていました。『銀河鉄道999』では、様々な星を巡る旅を通じて、命の大切さを考えさせられました。鉄郎と一緒に、私も成長させていただいたような気がします。学校の帰り道、ランドセルを背負いながら、よくテーマ曲を口ずさんでいたものです。そして、ヤマトや999の機関室の緻密(ちみつ)なメカの描写への憧れは、後に宇宙工学を学び、そのようなかっこいい宇宙船を造りたい、いつしか宇宙船に搭乗したい、という目標になっていきました。ですから、宇宙飛行士に認定されて間も無くの頃、先生の紫綬褒章祝賀会で直接お会い出来た時は、天にも昇るような気持ちで、時の輪が接したかのようで感無量でした。
先生から影響を受けた人は、私ばかりではありません。今日も、毛利衛宇宙飛行士や野口聡一宇宙飛行士、そして、先生が長年理事長をつとめて下さった日本宇宙少年団の関係者、宇宙に関わる方々がたくさん来ておられますよ。日本だけでなく、世界中でどれだけの人が先生から影響を受けたか計り知れません。そんな中、未熟者の私が弔辞を述べさせて頂くことはとても恐縮ですが、感謝の気持ちをお伝えさせて下さい。
先生の生き様から、本当にたくさんのことを学びました。先生の作品は、時空を超えて、様々な人、想(おも)いが繫(つな)がっていきますが、それは先生ご自身が常に、自然や宇宙に畏敬(いけい)の念を抱いていて、ご家族や周囲を感謝し、人と人の繋がりを大切にされてこられたからだと感じています。
先生はよく、「未来は今の子どもたちの心の中に既にある」と仰(おっしゃ)って、世界中の子ども達を励まし、信じ、愛情を注いで下さいましたね。私が宇宙に行く前年の2009年に、私の生まれ故郷で日本宇宙少年団の分団が結成された際には、公民館の一室でのアットホームな結成式に先生が自ら駆けつけて下さったことに、感動しました。一人一人の子ども達に向けられた先生の温かい眼差(まなざ)しを忘れません。私にも、「しっかり地球を見てきてくださいね」と仰って下さいました。
国際宇宙ステーションの中で、先生の作品の曲を聴きながら、青く輝く地球と向き合った時、先生の想いに少し近づけたような気がしました。宇宙から帰還後、ご報告に伺いたいとお伝えしたら、零時社さんに温かく迎えて下さり有難(ありがと)うございました。奥様、お嬢様へ向ける先生の優しくはにかんだような笑顔にも接し、私の父も九州男児でしたので、親近感を覚えました。
その後も、イベントで対談をさせて頂いたり、日本宇宙少年団の理事長を先生から畏(おそ)れ多くも引き継がせて頂いたり、先生とのご縁に恵まれたことは幸せなことでした。先生とお会いすると、いつも少年のような瑞々(みずみず)しさで、片道切符でいいから火星に行きたいと仰っていましたね。この目で見た地球を描きたいとも。
もっと作品に想いを残して頂きたかったのに、もっと導いて頂きたかったのに、旅立たれてしまったことが、哀(かな)しくてなりません。でも、先生は今、火星よりもずっと遠くの星々を旅していらっしゃるのですよね。好奇心旺盛な先生のことですから、宇宙の彼方(かなた)から、どう次の作品に繋げるか構想を考えられているような気がしてなりません。いつか、遠く時の輪の接するところで、またお会いできることを励みに、先生の夢を、更に次の世代に繋いでいけるよう、精進していきたいと思います。
松本零士先生、素敵な作品を、たくさんの励ましを、人生の道標を、本当にありがとうございました。星の海から、私たちを、未来をどうぞお見守りください。
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