クリーンな権力者は「幻想」 映画「TAR」が描いた音楽界のタブー
オーケストラの世界におけるポジションの争奪戦を、虚実織り交ぜ冷徹なタッチで描く異色の映画「TAR/ター」が公開中だ。主人公は、ケイト・ブランシェット演じる女性指揮者のリディア・ター。ハラスメントやSNSによる中傷など、現代的な風景が対位法のごとく絡み合い、予測不能なエンディングへとドラマが突き進む。トッド・フィールド監督はこう語る。「首席指揮者にのぼりつめる女性。しかもレズビアン。多くの人はこの設定だけで、何らかのレッテルを貼りたくなるのではないですか? 天使か、悪魔かと。でも、この映画を見たあと、そういうことがとてもナンセンスなことだと気付いてくれることを、私は望んでいます」
「この作品に関しては、私はあまり多くを語りたくない」とフィールド監督は言う。
「見る人それぞれ、思い思いに感じていただくことで、結果としてこの映画が無限の多様性を持つことを願っている。世界は矛盾に満ちている。人生はスポーツのように簡単に割り切れない。そういう真実は、音楽でなくては説得力をもって語り得ないと思った」
ターと彼女を取り巻く主要な人物以外は、ほぼすべてが実在の音楽家、および組織である。ターは、ベルリン・フィルとのマーラーの交響曲全曲録音の達成に野心を燃やす。実際、これは現実世界でベルリン・フィルの芸術監督を歴任したカラヤンやアバドにも実現できなかったことであり、実にトリッキーなパラレルワールドが創出されている。
「ここで起きていることが現実のことであるかのように、人々を『錯覚』させたかった。ターを実在の指揮者だと思いこんでしまった人もいるようだが、それはケイトの迫真の演技が、現実と虚構の壁を溶かすほどの体温とリアルさを携えていたということにほかならない」
女性指揮者が主人公というと、男性社会の中で傷つきながら奮闘……などというステレオタイプな筋書きをつい想像してしまう。しかしこの映画では、そこがことさらに強調されることはない。指揮者、副指揮者、コンサートマスター、首席奏者。かようにヒエラルキーが明瞭でシンプルだということが、オーケストラを舞台にした最大の理由という。
「音楽に限らず人類の歴史に…