4歳児救出、対岸から柄杓 「島原大変肥後迷惑」の新文献見つかる
江戸時代後期の1792(寛政4)年4月、島原半島の雲仙岳の眉山が崩壊し、対岸の熊本では津波に襲われ5千人の死者が出た。「島原大変肥後迷惑」として知られる、この大災害の様子を伝える文献が新たに見つかった。
新発見の史料は、熊本藩の筆頭家老を務めた松井家の文書や、藩主・細川家の文書から見つかった。
津波発生の1カ月前、松井家の家臣が、八代から島原を訪れた船頭長平の話を聞き取っていた。雲仙・普賢岳の噴火はすでに始まり、島原城下の石垣は地震で崩れ、町人たちが熊本藩領に逃げ始めた。長平も6人を船に乗せ、八代に避難させたという。
津波発生直後の、飽田郡の小島町や高橋町(いずれも現在の熊本市西区)の状況についての報告書もあった。西から雷鳴のような音が鳴り続け、坪井川が異常に増水。河口には、島原藩松平家の家紋が入った「柄杓(ひしゃく)」が流れ着き、多くの遺体が寺に集められた。
熊本藩から見舞いの使者として派遣された藩士の報告書には、火砕流が迫る島原城が番人もいない「明キ城」となったことや、山崩れの中から4歳児が3日後に助け出されたこと、「離国」を求める多くの百姓を庄屋が必死に抑えていることなどが記されていた。
江戸にいた熊本藩主細川斉茲…