沖縄慰霊の日 福島のラジオからも「二度とあってはいけない」

滝口信之
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 シンガー・ソングライターで、ラジオ福島のパーソナリティーを20年余り務める普天間かおりさん(49)は、太平洋戦争末期の沖縄戦で曽祖父を亡くした。沖縄が78回目の「慰霊の日」を迎えた6月23日。普天間さんはラジオを通して、自身の思いを語りかけた。

 「二度とあのようなことがあってはいけない。戦争を経験したおじい、おばあたちが私たち世代に託している切なる願いです。しっかりバトンを次の世代に渡さなくてはいけないときに来ています。戦争は遠い昔話ではない。つい78年前の出来事です」

 パーソナリティーを務める番組内で故郷への思いを話した。

 普天間さんは沖縄県中部の中城村で、沖縄が日本に復帰した翌年に生まれた。曽祖父は、沖縄戦で避難先の「ガマ」(自然洞窟)で米兵に銃撃され、亡くなった。幼い頃、曽祖母や祖母から沖縄戦の話を繰り返し聞いて育った。地上戦となった沖縄戦では県民の4人に1人が犠牲になった。

 隣の宜野湾市には米軍の普天間飛行場がある。両親が基地で働いている同級生がいた。街を歩けば米兵がいた。基地の存在は「当たり前」だった。

 デビューのため、高校2年生の時に本土の学校へ。同級生から「どうして日本語を話せるの?」「主食はサトウキビなの」「裸足で生活しているんでしょ」。

 衝撃だった。「同じ日本なのに、何も沖縄のことを知らないんだ」。米軍基地や沖縄戦のことも知られていなかった。

 普天間という名字は琉球王国に由来する。デビュー当時は「なじみがない」という理由で芸名の「本間かおり」を名乗った。「アイデンティティーが否定されているようだった」

 1995年、米兵3人による「少女暴行事件」を機に抗議の意思を示す県民大会が開かれ、8万5千人(主催者発表)が参加した。その様子を都内でテレビ越しに見た。「やっと沖縄の人の思いが伝わるようになった」と涙が止まらなかった。

 「沖縄の思いを歌で伝えたい」と97年に本名で再スタート。「なじみがない」と言われた名は、96年の日米両政府の普天間飛行場返還合意や、2009年に発足した民主党(当時)政権が普天間の「県外移設」を模索したことで、皮肉にも誰もが知る名となった。

 アルバムを聞いたラジオ福島のディレクターから「沖縄の言葉や文化について話してほしい」と誘われ、01年から週1回パーソナリティーを務める。11年3月11日は生放送中に被災した。震災後、避難所を回って被災者の話を聞いた。外で遊ぶことができない子どものために絵本の読み聞かせ会を開いた。

 「放送中に農家の人が野菜の差し入れを持ってきてくれるなど福島の人は温かい。沖縄の人に似ている」。今や福島は「第二のふるさと」だ。原発事故で故郷を追われた人の話を聞くと、米軍に土地を接収され、墓参りにも許可が必要な沖縄県民の姿と重なる。「自分たちで望んだわけではないのに、ふるさとを奪われた。痛みを知っている者同士だと思う」

 19年2月に辺野古の埋め立てを巡り、沖縄県民投票で反対が7割超を占めたが工事は止まらない。石垣島宮古島などの南西諸島ではミサイル部隊の配備が進む。「沖縄のことは沖縄だけの問題ではない。日本がどうあるべきか、この平和を守るため、本土の人も一緒に考えてほしい」

 戦争を経験した世代が減る中、これからもラジオで、コンサートで沖縄を伝え続ける。(滝口信之)

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