残暑の半チャンラーメン 未熟上等、「自立」は正義か疑ってみた
Re:Ron連載「よりよい社会」と言うならば(第3回)
暑い。精をつけねばと、この夏は例年以上にしっかり食事を取るようにしている。治療にだいぶ慣れたこともあり、ここ数年ほど縁遠くなっていた町中華にも足を伸ばすように。注文するのは「半チャンラーメン」ことラーメン半チャーハンセットだ。塩気・汁気・のどごしよき麺と米飯のコラボ……これぞ夏の完全栄養食だと思っている(勅使川原調べ)。この場を借りて、半チャンこと半人前のチャーハンに御礼を申し上げる。あなたが仮に一人前では、食べたくても食べきれなくて困っただろう。
今日はそんな、半チャンを皮切りに(!?)社会を組織論的に見つめてみたい。前回の連載文末で予告のとおり、「よりよい社会」の推進を阻みかねない言説ともかかわってくるはずだ。
というのも、たった今ありがたがった半チャンの「半人前」。これは文脈次第では、お咎(とが)めにもなり得る。「半人前のくせに口だけは一丁前だな」や、逆に「これで君もやっと一人前だ」などというのはおなじみだ。
つまり、「一人前」であること――おとなであれば備えているはずとされる心身、技能、力量などの総称。漠然と人並みの能力――とは、あれもこれもひとりでできること、すなわち「自立」を意味する。また、一般的にはそうあることこそが「正義」というわけだ。
だが今日は、ごく当たり前に礼賛されている「自立」について、そうも疑いようのない「正義」なのか、立ち止まって考えようと思う。
「自立」「一人前」を正義とする一般論について考えるにあたり、どうしても話したい学校の思い出がある。今は不適切な関わりとされ、「合理的配慮」やアレルギー対策など、しかるべき対応がされていることを断っておく。ただ、表立った対応が違うというだけで、四半世紀を経た今も、案外似たようなことが起きていることを示したく、お付き合い願いたい。
「ひとりでできなきゃ」 今も昔も促す学校
時は1990年代。私の通っていた公立小学校でもあったし、周りでもよく聞く話だったのだが、国語の音読がどうしてもできない子に、先生が「○○さんが大きな声でスラスラと読むまで授業を終わりません」と言って、午前中ずっと国語、などということがままあった。
また、牛乳が飲めない子もクラスには必ずいるものだが、飲み終わるまで給食を片付けてはいけないと先生に言われ、掃除中もその子は牛乳とにらめっこ。すぐ横でぞうきんがけをするなんてのも珍しくなかった。
忘れ物の扱いも厳しく、教科書を忘れると先生が「勅使川原さんのお隣の人、見せてあげないで結構です。忘れものをするとこういうことになるんです」などと言い放ったことは、いまだに忘れることができない。
繰り返すが、マルトリートメント(不適切なかかわり)だ!と糾弾する意図はない。一方で、「そんな昔の話を蒸し返して……」と済ませるべきことでもなさそうだ。
それよりその背後に見え透ける、根強いとある価値観が気になって仕方ない。
というのも、今日とて現に、漢字が苦手な小学生の息子は、みんなより多く漢字特訓用の夏休みの宿題を出されて、ひーひー言っている(たくさん書けば、書けるようになるのかは不明だ)。
また、娘が通う保育園の教育目標は「自立する心」で、連絡帳にはよく「苦手なピアニカも自主練を重ねて徐々にひとりで演奏できるようになってきました」などとある。
余談だが、皆が“ひとりでちゃんと”弾けるように、保育園でも習熟度別に三つのグループに分けて練習していると聞いて驚いた。合奏するでもなく、“ひとりでちゃんと”ピアニカを弾かねばならない場面はこの先どのくらいあるのだろう……なんて考えてはいけない。
本筋に戻るが、私が着目したいのは、ひどいかどうかではない。「社会は厳しい」「ひとりでできなきゃ」「早くから楽を覚えて苦労するのはこの子(生徒)ですから」――と、四半世紀前も、今の先生方も異口同音に語ることが非常に興味深いのだ。
そう、先生たちは、厳しい社会で我々が生き抜けるよう、できるだけ個人が“できないこと”がないようにわたしたちに「一人前」になること「自立」を促してくれているのだ。今も昔も、心を鬼にして。
それもそのはず、「自立」はある種、教育のゴールとされてきている。2006年に改正された教育基本法にも「義務教育として行われる普通教育は、『各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い』(中略)資質を養うことを目的として行われるものとする」(第5条2項)と、あるとおりだ。
探求すべきは、人と人との組み合わせの妙
どう生きるかは、「自分」にかかっている。それももちろん一理あることはわかるのだが、やっぱりどうも、あれもこれもひとりでできる「自立」がはらむ、マッチョな世界観が気になる。
確かに「社会は厳しい」のだろうが、マッチョな方へみなで猛進しようとするからこそ、より「厳しい社会」になっている……という皮肉な可能性について、いかほど検討されてきているのだろうか。
言葉尻こそ違えど、できる・できないという能力主義の延長線上にあるのが「自立」だ。生きづらさの軽減を、「自立」という名の能力主義に求めて、道は本当に開けるのだろうか。疑問は尽きない。
誰にでも、ある環境下におい…
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