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 「いやや! どんなことがあっても、私はよそへは行かないよ(中略)

 ここは私の生きてきた『ふるさと』なんだ」

 近鉄伊勢田駅から西へ約500メートル。ウトロ地区の入り口にある一軒家に、2002年につくられた「オモニのうた」の看板がかかる。オモニは朝鮮語でお母さんの意味。以前あった「強制退去 決死反対」と赤字で書かれた看板は10年ほど前にとりはずされ、近くの木陰に置かれていた。

 地区の中では新しい5階建ての市営住宅のわきで、2棟目の建設に向けた解体工事が進む。

 ウトロ地区に来ると、いつものように出会うおばあさんがいる。手押し車を押して歩く姜景南(カン・ギョン・ナム)さん(92)。1日に1箱のたばこを吸い、3回散歩をする。

 8歳のころ、日本に来ていた父やきょうだいを追い、朝鮮半島南部の慶尚南道から母と大阪市に来た。堺市へ移り、空襲を逃れてウトロに来た様子を情景描写をまじえて話し始めると、なかなかとまらない。

 ♪ひさしぶりだなおとみさん

 時折、歌もまじる。働きづめだったころは、歌ったり踊ったりする余裕などなかった。

 長男の金成根(キム・ソン・グン)さん(69)は「日本に来ても、ずっと『いちばん下』の地域にしか行けなかった。でも、みんなと一緒におったから、精神面では楽やったと思うよ」と言う。けれど、気持ちを支えあった知人たちは世を去った。散歩から戻った姜さんはたまに「だれもおらへんわ」と漏らす。

 姜さんは新しい市営住宅で金さんと暮らし始めたが、最近ひとりで元の家に戻った。解体されるまでの間だけでも、住み慣れた家にいたいようだ。

 ウトロを守る会代表の田川明子さん(73)はかつて開かれた「地上げ反対」集会で、姜さんが手を握り、自分に告げた言葉が忘れられない。

 「あんまり大きい声では言えへんけど、地上げが起こって良かったと思う時もあるねんで。地上げが起こってから、あんたらここへ来るようになったやろ。(日本人から差別を受けた)恨みつらみが渦巻いてるねん。これを持ったまま死んだら地獄に落ちる。だけど、こうやってあんたらと一緒に焼き肉つついてしゃべってるやん。それで、ちっとずつここがとけていくねん」

 そう言って、姜さんは手で胸を押さえたという。(小山琢)

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 ウトロ地区 宇治市西部、伊勢田町の約2.1ヘクタール。太平洋戦争中、国策の京都飛行場建設に動員された朝鮮人労働者の「飯場」跡に、在日コリアンのコミュニティーができた。所有者が土地を転売し、1989年、買い受けた会社が土地の明け渡しを求めて提訴。2000年に住民敗訴の判決が確定した。

 提訴された直後に支援者らが「ウトロを守る会」を結成し、住民らと共にウトロに住み続けられるよう運動を展開。国内外からの募金や韓国政府の支援金をもとに、11年までに地区の土地の約3分の1を買い取った。国と府、宇治市が地区の住環境改善事業の実施を決め、市営住宅2棟が建設されることになった。昨年末に最初の1棟(40戸)が完成し、年明けから入居が始まった。

 住民や守る会が、日本も批准している国際人権規約(社会権規約)が強制立ち退きを人権侵害とみなしていることを根拠に、国際社会にも支援を訴えたことが問題解決につながった。

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 約30年がかりで安住の地ができたウトロ。そこに暮らす人、支えてきた人たちの思いをたどる。