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 生い茂る樹木は鮮やかに色づいて四季を彩り、池には野鳥が飛来する。小田急線の狛江駅(東京都狛江市)北口に広がる「狛江弁財天池特別緑地保全地区」。訪れてみて、これほど豊かな自然が駅前の一等地に残されていることに驚いた。もう一つ、驚かされたことがある。歴史の歯車がわずかに違って回っていれば、この地にゆかりの人物が、日本の首相になっていたかもしれないというのだ。

 1931年10月、陸軍軍人の橋本欣五郎らは軍部や右翼とクーデターを企てた。「十月事件」である。その前月、中国東北部で南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された。関東軍はこれを「中国の犯行だ」として軍事展開。同地の占領に乗り出す。「満州事変」の始まりだ。爆破は後に、関東軍の謀略だったと明らかになっている。

 若槻礼次郎内閣は事態の不拡大方針を決定。これを不満とした橋本らがクーデターを計画した。首相官邸などを襲撃し、新内閣を立ち上げるとの筋書きである。「首相」に担がれる予定だったのは、陸軍中将の荒木貞夫。天皇親政による国家改造を目指す陸軍の派閥「皇道派」の中心的人物だ。

 ところが情報は事前に漏れた。聞き及んだ荒木自身も橋本をいさめ、クーデターは未遂に。「荒木首相」は幻に終わった。

 緑地にはかつて、荒木の屋敷があった。

 「もともと料亭があり、昭和の初めごろ荒木さんが自分と子どもたちの家を建てた。料亭や荒木さん宅の庭木が、今の植物のもとなんです」と近所の石川英夫さん(91)。43年に予科練に行った際、持参した日の丸に荒木が自身の名前を書いてくれたという。

 十月事件の後、荒木は陸軍大臣や文部大臣などを歴任。大戦末期、45年3月29日付の朝日新聞で「日本魂をもつて戦ふとき戦は必ず勝つ」と述べている。しかし、その年の夏に日本は降伏。朝鮮半島で敗戦を迎えた石川さんは「持っているとまずいかもしれない」と、現地で日の丸を処分した。荒木は一転、A級戦犯として東京裁判で終身刑の判決を受ける。55年に仮釈放され、66年に客死するまで、狛江の屋敷で過ごした。

 市は80年代初め、一帯の再開発を計画したが、市民が猛反発。自然公園にすることを求める署名も8千筆近く集まった。緑地は残され、東京都は87年、隣接する泉龍寺の境内を含めた2・1ヘクタールを特別緑地保全地区に指定。市と荒木の遺族との移転交渉がまとまると、管理棟を設けるなどの整備が行われ、緑地は2002年に開放された。開放の実務や草刈りなどを担ってきたのが「市民の会」だ。

 「緑を守ろうと活動を始めたのがきっかけでした」と代表の金光桂子さん(86)。夫婦で芸術家だったが、子どもが病弱のため、金光さんは子育てに専念した。「転居してきた50~60年前、狛江には自然がたくさんあった。それが開発でどんどん少なくなっていきました」。緑地は現在、原則として毎月第2日曜日に無料開放され、市民の会は訪れた人に自然を解説する取り組みなどもしている。

 荒木は亡くなる3年ほど前、屋敷で雑誌「アサヒグラフ」の取材に応じている。東京裁判を「茶番」と切り捨て、現憲法を否定。明治憲法と明治天皇の「五箇条(ごかじょう)の御誓文」の精神を反映させた政治こそが「理想だ」と述べている。

 今、緑地に「幻の首相」をしのばせるものはない。春には桜が咲き、秋から冬にかけてはモミジやイチョウが赤や黄色に色づく。メジロやカモといった野鳥が訪れ、トンボやチョウも舞う。金光さんは言う。「平和だから自然も守れる。人は自然の中で生きている。そうしたことも子どもたちに伝えていきたいと思っています」。

 (河井健)