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 高校野球の選抜大会の開幕まであと半月。出番を待つ龍谷大平安(京都市下京区)と福知山成美(福知山市)の選手は、家族の支えで野球に打ち込めている。「いつもありがとう」。その気持ちを甲子園のプレーで伝えようとしている。

 ばあちゃんを甲子園に連れて行く。龍谷大平安の左腕、豊田祐輔君は祖母と約束していた。それは果たせなかった。祖母は3年前、76歳で他界したからだ。大舞台で思いきり腕を振って投げ、成長した姿を祖母に見せるつもりだ。

 「ゆうちゃんが甲子園に行くまで生きてられるかな?」。母方の祖母の三浦桂子さんは、豊田君にいつもそう話していた。「病気で入院してても、俺がおんぶして連れてったるわ」。豊田君は決まってこう返していた。三浦さんの反応も決まっていた。「そうか、そうか」。孫に笑顔を見せ、うなずいた。

 居酒屋を営む両親が帰宅するまで、面倒をみてくれたのは近所に住む三浦さんだった。幼稚園から小学校5年まで、毎日のように帰りに祖母の家に寄り、夕ご飯を食べさせてもらった。ともに阪神ファンだった2人は、よく阪神戦の中継を見た。

 足が悪くて試合の応援に来られないが、試合から戻ると「どうやった?」「次がんばりや」と声をかけてくれた。

 七夕では毎年、三浦さん宅の庭のササに願い事を書いた短冊を結んだ。「ササの葉さ~らさら」と一緒に歌った。豊田君は「いつも陽気。楽しいばあちゃんだった」と話す。

 2015年の暮れ、三浦さんはステージ3のがんと診断された。すぐ入院し、医師から「半年もつかどうか」と告げられた。母の智子さん(42)は16年5月、お見舞いに向かう車中で豊田君に病状を伝えた。元気な三浦さんを見続けてきただけに信じられなかった。

 病室を出るとき、「いい子にしてるんやよ」と声をかけられた。会えなくなるかもしれないと思い、うなずくことしかできなかった。それが豊田君が最後に聞いた言葉になった。七夕の日、亡くなった。

 豊田君は昨秋の近畿大会で背番号1を背負い、チームを選抜出場に導いた。甲子園でも勝ちに徹する粘投をみせるつもりだ。「ばあちゃんは生きていて、見てくれている気がする。いいピッチングをして、ばあちゃんに恩返しがしたい」(川村貴大)

 福知山成美のエース小橋翔大君が、小学校2年生から野球を始めたのは母方の祖父の影響だった。祖父は福知山市野球協会の副会長で、70代が集まる地元チームで投手をしている。ずっとキャッチボールやティー打撃につき合ってくれた祖父に、甲子園で投げる姿を見せるという夢がかなう日が近づいた。

 祖父の松井博孝さん(74)=福知山市=は母屋で、小橋君らは離れで暮らしている。保育園のときから家の前で、球を転がして捕る遊びの相手をしてくれた。巨人ファンの松井さんはときどき、阪神との「伝統の一戦」を見に甲子園に連れて行ってくれた。

 小橋君は、幼いころから松井さんを「ひろちゃん」と呼んでいる。両親は共働きで、松井さんが練習相手だった。キャッチボールは家の前や小学校で。車庫や近くの畑に移動式ネットを置き、ティー打撃を繰り返した。

 小学5年になると、肩が強くなった小橋君を投手にしようと、松井さんが捕手役になって家の前で投げさせるようになった。一緒に夕食をとり、プロ野球中継を見ながら配球を考えるのが日課になった。

 中学生になると球威が増し、制球力も高くなった。「球が速くなり、手が痛くなった」と松井さん。「甲子園を狙うなら成美に行け」と助言し、小橋君もそうしようと思った。

 松井さんは、妻の純子さん(72)と一緒に、小橋君の公式戦を欠かさず見に行く。試合前日には、新聞や雑誌で対戦校のデータを見て、「この打者は気いつけ」と助言。家を出るときに「力抜いて、腕振れよ」と声をかける。観戦の定位置は、三塁寄りのバックネット裏。いい投球をして帰宅すると、グータッチで迎えるようになった。

 松井さんは1月、福知山成美の甲子園出場が決まると、机をたたき「よっしゃー!」と喜んだ。帰ってきた小橋君とグータッチ。「思いっきり投げてこい」と声をかけた。

 小橋君は「野球を教えてくれたひろちゃんのためにも、打たせてとるスタイルを貫いて勝ちたい」と意気込んでいる。(高橋豪)