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 稲荷山のふもと。赤穂浪士を率いた大石内蔵助(くらのすけ)(1659~1703)は討ち入り前、現在の大石神社近くに部下の手引きで身を寄せていた。この神社は戦前の1935年、知事が音頭を取り、内蔵助をまつるために創建された。内蔵助の命日の20日も、忠臣蔵ファンが参拝に訪れた。

 主君の浅野内匠頭(たくみのかみ)のあだを討とうと、内蔵助は山科区西野山桜ノ馬場町辺りに潜んでいたとされる。市歴史資料館(上京区)の主任研究員、宇野日出生(ひでお)さん(63)は「潜伏時に頼ったのは親戚でもある部下。旧三条街道もあり交通の便がよく、情報を集めやすかったのだろう」と話す。

 民衆はあだ討ちをたたえた。ただ、今で言えば「テロ行為」。5代将軍の徳川綱吉は切腹させるべきか迷ったとされる。

 綱吉が相談したのが、山科北部にある毘沙門堂の公弁法親王(こうべんほっしんのう)だった。このとき法親王は「時には死を与えることも情けとなる」と言ったとも伝えられる。

 毘沙門堂執事の石田潔(きよし)さん(76)は古文書の記録をもとに、「綱吉は浪士の命を助けるためのお墨付きを得ようとしたが、親王の答えは予想外のものだったのではないか」と話す。

 綱吉は切腹を命じた。毘沙門堂から南に約200メートル先の瑞光院には、浪士の遺髪が眠っている。もともと1613年に上京区に建てられ、1962年に現在の地に移った。赤穂藩の浅野家とつながりがあり、僧を遣わして浪士の遺髪を持ち帰った。

 瑞光院には、内蔵助が討ち入り時によろいの下につけていたと伝えられる下着(非公開)が保管され、血痕がはっきり数カ所に残っている。住職の前田宗俊(そうしゅん)さん(46)は「壮絶な討ち入りだったことがわかる。主君のために必死に戦った証し」と説明する。

 大石神社を建てる際、内蔵助の直筆の書簡や、赤穂浪士47人の像も含め、忠臣蔵にまつわる品が続々と寄贈された。忠臣蔵ファンの「聖地」となり、平日でも10人ほどが訪れる。千葉県柏市から訪れた中佐古勇さん(80)は内蔵助の石像に見入り、「忠臣蔵が好きで来たが、ここまで立派にまつられているとはびっくり」と話した。

 討ち入りは旧暦の12月14日。毎年の12月14日、区民47人が赤穂浪士に扮して毘沙門堂を出発し、5キロほど離れた大石神社をめざす。JR山科駅の南側にある山科三条街道商店会が1974年に始めた「山科義士まつり」だ。浪士役の衣装やメイクは、東映太秦映画村(右京区)にお願いしている。もともと小規模な祭りだったが、今では5万人が詰めかける。

 祭りの実行委員会事務局長を務める澤田清一さん(75)は「主君を思って戦った熱さが日本人の心を打ってきた。私たちももっと熱く盛り上げていきたい」と話す。(中山直樹)

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 山科新聞は今回で終わりです。