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みやぎ野球史再発掘 伊藤正浩

1930(昭和5)年10月、仙台初の市営球場「澱橋(よどみばし)球場」が、今の青葉区角五郎につくられた。かつての仙台藩の講武所跡近く。建設は不況対策の公共事業であったという。

 公称3千人収容と小ぶりな球場だったが、のちに中堅が約110メートルほどに改修された。河川敷のため石が多く、恵まれたコンディションではなかったようだ。こけら落としの試合は、現在も続く東北学院と青山学院の定期戦(第3回)であった。

 当初は、スポーツマン球場、八木山球場に次ぐ市内球界のサブ球場的な役割だった。しかし37年にスポーツマン球場が閉場すると、様相が変わる。高橋啓(のちに参院議員)らが澱橋球場を借り受けて運営にあたり、都市対抗野球や甲子園大会の予選会場も移ってきた。

 この球場で試合をした有名選手としては、38年に来仙した、ビクトル・スタルヒンが挙げられる。のちの日本プロ野球史上初の300勝投手。軍隊に入営した沢村栄治に代わり、巨人軍のエースとなっていた。8月24日、ライオン軍(横浜DeNAの前身の一つ)との試合に先発。6回を0点に抑えた。

 39年、澱橋球場は市の管理に戻された。翌年には一帯が陸上トラックなどを備える総合運動場として整備され、周りには土手が築かれた。46年5月には、長らく中断されていた仙台一中二中定期戦(現在の仙台一高二高定期戦)の復活第1戦が行われた。猛烈な打撃戦の末に、32―27で二中が勝利。終戦直後で、両チームとも不ぞろいのユニホームだったという。

 その後、評定河原球場が市内のメイン球場となり、澱橋球場は使用頻度が減少。50年代前半、河川整備と宅地開発のために姿を消した。現在では、その場所も定かではない。