(28面から続く)

15 個別意見

 ■記事に「角度」をつけ過ぎるな 岡本行夫委員

 我々の今回の検証作業に対して、朝日新聞社はまことに誠実に対応した。新しい方向へレールが敷かれた時の朝日の実行力と効率には並々ならぬものがある。しかしレールが敷かれていない時には、いかなる指摘を受けても自己正当化を続ける。その保守性にも並々ならぬものがある。

 吉田清治証言を使い続けた責任は重い。しかし、同様に国際的に大きなインパクトを与えたのは、1992年1月11日の「慰安所 軍関与示す資料」と題して6本の見出しをつけたセンセーショナルなトップ記事だ。数日後の日韓首脳会談にぶつけたこの報道は、結果としてその後の韓国側の対日非難を一挙に誘うことになった。(同記事の問題点については本報告書をお読みいただきたい)。

 当委員会のヒアリングを含め、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞いた。「事実を伝えるだけでは報道にならない、朝日新聞としての方向性をつけて、初めて見出しがつく」と。事実だけでは記事にならないという認識に驚いた。

 だから、出来事には朝日新聞の方向性に沿うように「角度」がつけられて報道される。慰安婦問題だけではない。原発、防衛・日米安保、集団的自衛権、秘密保護、増税、等々。

 方向性に合わせるためにはつまみ食いも行われる。(例えば、福島第一原発吉田調書の報道のように)。なんの問題もない事案でも、あたかも大問題であるように書かれたりもする。(例えば、私が担当した案件なので偶々記憶しているのだが、かつてインド洋に派遣された自衛艦が外国港に寄港した際、建造した造船会社の技術者が契約どおり船の修理に赴いた。至極あたりまえのことだ。それを、朝日は1面トップに「派遣自衛艦修理に民間人」と白抜き見出しを打ち、「政府が、戦闘支援中の自衛隊に民間協力をさせる戦後初のケースとなった」とやった。読者はたじろぐ)。

 新聞社に不偏不党になれと説くつもりはない。しかし、根拠薄弱な記事や、「火のないところに煙を立てる」行為は許されまい。

 朝日新聞社への入社は難関だ。エリートである社員は独善的とならないか。「物事の価値と意味は自分が決める」という思いが強すぎないか。ここでは控えるが、ほかにも「角度」をつけ過ぎて事実を正確に伝えない多くの記事がある。再出発のために深く考え直してもらいたい。新聞社は運動体ではない。

 一方で重要なことがある。不正確でない限り、多様な見方を伝える報道の存在は民主主義を強いものにする。朝日新聞の凋落は誰の利益にも適わない。朝日の後退は全ての新聞の後退につながる。

 ■現代におけるジャーナリズムの責任 北岡伸一委員

 今回の従軍慰安婦報道問題の発端は、まず、粗雑な事実の把握である。

 吉田証言が怪しいということは、よく読めば分かることである。従軍慰安婦と挺身隊との混同も、両者が概念として違うことは千田氏の著書においてすら明らかだし、支度金等の額も全然違うから、ありえない間違いである。こうした初歩的な誤りを犯し、しかもそれを長く訂正しなかった責任は大きい。

 類似したケースはいわゆる「百人切り」問題である。戦争中の兵士が、勝手に行動できるのか、「審判」のいないゲームが可能なのか、少し考えれば疑わしい話なのに、そのまま報道され、相当広く信じられてしまった。

 第二の問題は、キャンペーン体質の過剰である。新聞が正しいと信じる目的のために、その方向で論陣をはることは、一概に否定はできない。従軍慰安婦問題を取り上げて、国民に知らしめたことは、それなりに評価できる。

 しかしそれも程度問題である。1971年9月に中国の林彪副主席が失脚したとき、世界のメディアの中で朝日新聞だけが林彪健在と言い続けた。そして半年後に、林彪の失脚は分かっていたが、日中関係の改善に有害なので報道しなかったと述べた。同様のおごりと独善が、今回の従軍慰安婦報道についても感じられる。

 第三に指摘したいのは、物事をもっぱら政府対人民の図式で考える傾向である。

 権力に対する監視は、メディアのもっとも重大な役割である。しかし権力は制約すればよいというものではない。権力の行使をがんじがらめにすれば、緊急事態における対応も不十分となる恐れがある。また政府をあまり批判すると、対立する他国を利して、国民が不利益を受けることもある。権力批判だけでは困るのである。

 第四に指摘したいのは、過剰な正義の追求である。

 従軍慰安婦問題において、朝日は「被害者に寄り添う」ことを重視してきた。これは重要な点である。

 しかし、被害者によりそい、徹底的な正義の実現を主張するだけでは不十分である。現在の日本国民の大部分は戦後生まれであって、こうした問題に直接責任を負うべき立場にない。日本に対する過剰な批判は、彼らの反発を招くことになる。またこうした言説は韓国の期待を膨らませた。その結果、韓国大統領が、世界の首脳に対し、日本の非を鳴らすという、異例の行動に出ることとなった。それは、さらに日本の一部の反発を招き、反韓、嫌韓の言説の横行を招いた。こうした偏狭なナショナリズムの台頭も、日韓の和解の困難化も、春秋の筆法を以てすれば、朝日新聞の慰安婦報道がもたらしたものである。

 かつてベルサイユ条約の過酷な対独賠償要求がナチスの台頭をもたらしたように、過剰な正義の追求は、ときに危険である。正義の追求と同時に、日韓の歴史和解を視野にいれたバランスのとれたアプローチが必要だった。

 第五に、現実的な解決策の提示の欠如である。

 アジア女性基金に対して当初取られた否定的な態度は残念なものだった。

 日韓基本条約によって、個人補償については解決済みであり、それ以後の個人補償については、韓国政府が対応すべきだというのが日本の立場である。この立場と、人道的見地を両立させるために、政府はアジア女性基金という民間と政府が共同で取り組む形をとり、国家責任ならぬ公的責任を取ることとしたのである。公的責任というのは、必ずしも悪い方式ではない。ドイツのシーメンス等もこの形であった。これを否定したことは、韓国の強硬派を勇気づけ、ますます和解を困難にしたのである。

 なお、国家補償が最善であるという立場には、疑問もある。すべてを国家の責任にすると、その間で違法行為に従事し、不当な利益を得ていたブローカー等の責任が見逃されることにつながらないだろうか。

 第六は論点のすりかえである。

 今年8月5日の報道で朝日新聞は強制連行の証拠はなかったが、慰安婦に対する強制はあり、彼女たちが悲惨な目にあったことが本質だと述べた。それには同感である。

 しかし、第1次安倍内閣当時、安倍首相が強制連行はなかったという立場を示したとき、これを強く批判したのは朝日新聞ではなかったか。今の立場と、安倍首相が首相として公的に発言した立場、そして河野談話継承という立場とどこが違うのだろうか。

 朝日新聞にはこの種の言い抜け、すり替えが少なくない。

 たとえば憲法9条について、改正論者の多数は、憲法9条1項の戦争放棄は支持するが、2項の戦力不保持は改正すべきだという人である。朝日新聞は、繰り返し、こうした人々に、「戦争を放棄した9条を改正しようとしている」とレッテルを張ってきた。9条2項改正論を、9条全体の改正論と誇張してきたのである。要するに、自らの主張のために、他者の言説を歪曲ないし貶める傾向である。

 安倍内閣の安全保障政策についても、世界中で戦争ができるようにする、という趣旨のレッテルが張られている。人命の価値がきわめて高く、財政状況がきわめて悪い日本で、戦争を好んでするリーダーがいるはずがない。これも他を歪曲する例である。

 これらは、議論の仕方として不適切であるのみならず、国論を分裂させ、中道でコンセンサスが出来ることを阻む結果になっていないだろうか。

 以上のような欠点は、朝日新聞だけにあるわけではない。また、このような指摘は、やや厳しすぎるかもしれない。しかし、新聞記者は特権集団なのである。名刺一枚で誰にでも会えるし、自分のメッセージを数百万部の新聞を通じて天下に発表することができる。しかも高給を得ている。自由な言論のために、そうした特権集団は必要だ。しかし特権には義務が伴う。自らの記事を絶えず点検する厳しい自己規律を求めたい。

 ■気になる朝日新聞の体質 田原総一朗委員

 2014年8月5日付の検証記事についてだが、吉田清治氏の証言が虚偽であったとして、吉田証言関連の記事を取り消しはしたが、読者に対して謝罪はしなかった。読者に誤った情報を与えてしまった加害者としての責任を問う姿勢がなく、まるで朝日新聞が自らを吉田証言にだまされた被害者であるような記事として扱っていた。

 なぜ誤った情報を与えた加害者として謝罪しなかったのか。

 その理由は、報告書に記しているように、「謝罪することで、朝日新聞の記事を『ねつ造』と批判する勢力を、『やはり慰安婦報道全体がねつ造だった』とエスカレートさせてしまう恐れがある、朝日新聞を信じて読んでくれている読者の信用を失う恐れがある」と判断したためのようだ。報告書では、経営幹部が判断したと記しているが、当初は入っていた謝罪文言を外す判断をしたのは経営の最高幹部である。

 話が飛躍するが、池上彰氏のコラムについても、担当者やGE、そしてGMは掲載することで問題はないと判断したようだ。ところが、吉田証言問題と同様に、「経営上の危機管理の観点」から、経営の最高幹部が掲載しないと判断したのであった。

 そして最高幹部は、私たち第三者委員会が提言を出す以前に辞任してしまった。

 もちろん、8月5日付の検証記事で加害者として謝罪しなかったのも、池上氏のコラムを掲載しないといったん決めたのも、明らかに誤りであった。だが、問題は最高幹部の判断が誤りであったと同時に、編集部門のスタッフがなぜ最高幹部の誤りを指摘してとことん議論を尽くすことが出来なかったのか、ということだ。

 編集上の問題に、経営最高幹部が介入したことに対する批判はあるだろうが、私は編集部門のスタッフが、表現は下品だが、最高幹部と身体を張った議論が出来なかったことこそが朝日新聞の問題体質であり、最高幹部が辞任しただけでは体質改革にはならないのではないかと強く感じている。

 ■「相対化」する視点を! 波多野澄雄委員

 朝日の慰安婦報道をふりかえって指摘できることは、その多くが、法的救済から洩れた、被害者個人を救うという意味の、「戦後補償」問題の解決――終局的には国家補償の実現を後押しする「キャンペーン」と位置付けられていたことである。当時の記者は「戦後補償をやりそこねた、置き忘れたテーマとして確立されつつある」と実感していた、と語る。

 慰安婦問題が浮上してくると、朝鮮半島での徴用者の「強制連行」が焦点であったことから、この問題は、募集段階での「強制」の有無や程度という今に続く問題設定に投げ込まれる。その意味で、強制連行の実行者としての吉田清治氏の登場は、朝日にとって貴重であり、容易に手放せない存在となったのであろう。

 朝日の戦後補償報道は、その解決を促すほどに「加害者」と「被害者」という二分法に陥る傾向がある。日本とアジアの過去の関係を考えれば、それも重要である。だが、被害者の立場に過剰に寄り添う取材対象の選定、発掘とその記事化が目立っていた。アジア女性基金の運営審議会委員長を務めた橋本ヒロ子氏は、朝日新聞等の記事は、その取材源が反基金NGOに偏り、「基金アレルギーという世論を醸成した」と言わざるを得ないと書いている(大沼保昭他『「慰安婦」問題とアジア女性基金』)。

 「贖罪意識」のなせる業か、支援団体の国家補償論に翻弄され、揺れ動く韓国政府の慰安婦政策を明確に批判する社説や論説はなかった。問題がこじれた原因が、そこにあることに、控えめな指摘はあるものの、国家補償を認めない日本側にこそ責任があるかのような論調が目立った。

 いわゆる「人権派」の一握りの記者が、報道の先頭に立っていた点も特徴的である。とくに、クマラスワミ報告書や女性国際戦犯法廷の意義を過剰に評価する記事は主に、彼らによるものであった。ある記者は、彼らの問題点を「運動体と一緒になってしまう」傾向と指摘する。朝日は、慰安婦問題の本質は女性の人権や尊厳の問題だ、としばしば説くが、現実的な選択肢を示せないまま、本質論に逃げ込むような印象を与えることは否めない。多様な読者に豊かな情報を伝える努力を奪う。

 大野博人氏(論説主幹)は、今年6月、東亜日報幹部との長時間対談を終え、こう書いている。

 自分たちの国や政府の振る舞いをなるべく「相対化」する視点を読者に提供する。私は、それも大事な仕事の一つだと思っている。政治指導者の説明に誇張はないか、自国の政策はほんとうの問題解決に向かっているか――。心すべき姿勢である。

 ■慰安婦問題と女性の人権 林香里委員

 第三者委員会の議論で、ほとんど取り上げられなかった、慰安婦問題と「女性の人権」の関係について、個別意見を述べたい。この論点が委員会で取り上げられなかった背景には、一つには朝日新聞の社内ヒアリングをしても「女性の人権」は争点となっていなかったため浮上してこなかったという報道・編成局内部の問題と、もう一つには、第三者委員会メンバーのうち、女性は私一人であり、さらに女性の人権の専門家も不在だったという委員会の構造的問題の二つがあると考えられる。

 今回、第三者委員会の指示で朝日新聞の取材網にインタビューさせた海外の有識者たちからも、また、海外15紙の新聞記事の検証からも、国際社会では、慰安婦問題を人道主義的な「女性の人権問題」の視点から位置づけようとしていることが見てとれた。海外の報道では、記事に登場する情報源の国籍・出自・職業の多様性も目についた。他方で、近年の日本国内の議論では、ほとんどの場合、日韓や日米などの「外交問題」、および「日本のイメージの損失」など、外交関係と「国益」の問題として扱われている。内外の議論のギャップが、改めて浮き彫りにされた。

 朝日新聞の杉浦信之・取締役編集担当(当時)による8月5日付の記事「慰安婦問題の本質 直視を」(1面見出し)においても、「女性としての尊厳を踏みにじられたことが問題の本質なのです」と結論付けていた。それにもかかわらず、朝日新聞の過去の記事を調査すると、この点に十分な光が当てられていたという印象は薄い。また、社内ヒアリングをした際も、慰安婦問題を扱う現場の記者たちの中に、「女性の人権」という観点から専門家に取材したり、問題意識を共有したりしていた形跡はほとんどなかった。その上、記者たちからは、近年の朝日新聞の「慰安婦問題」に取り組む姿勢は、中途半端、あるいは消極的であったという声も複数上がっていた。ちなみに、私が調査したところ、日本の全国紙4紙の中で、「慰安婦」で検索した記事の割合は、2009年以降産経新聞がトップである。

 こうした環境の中で、結局、朝日新聞も、「国家の責任」「国家のプライド」という枠組みから離れることができないまま、「女性の人権」という言葉を急ごしらえで持ち出して、かねてから主張してきた「広義の強制性」という社論を正当化していた印象がある。「本質」と言いながら、慰安婦問題の本質と「女性の人権」とがどのような関係にあるのか。日本の帝国主義が、女性や被植民者の権利を周縁化し、略奪することで成立していた体制だったという基本的事実を、読者に十分な情報として提供し、議論の場を与えてきたとは言い難い。

 第三者委員の任務にあたり、慰安婦問題解決の複雑さ、困難さ、そして重要さを改めて実感した。だからこそ、日本社会において、このテーマを、女性はもちろん、外国人、専門家、一般市民など、多様で幅広い社会のメンバーが自由に議論できる土壌を耕し、議論の幅を広げていかなければならない。朝日新聞には、今回の一連の事件をきっかけに、ぜひその牽引力となっていってほしいと願う。

 ■「軍隊と性」という視点 保阪正康委員

 慰安婦問題の本質は「軍隊と性」である。もっとかみ砕いて言うなら「軍隊と性病」と言っていい。歴史上、あるいはどこの国でも、この関係にはきわめて神経質だった。

 旧軍の高級将校の証言によれば、陸軍大学校でもこの恐怖についての講義はあったというし、将校として兵士を教育訓練するときも性病については特に熱心に行われたという。なぜなら、1部隊に10%もの性病患者が生まれたら、その軍隊はすでに戦う軍隊ではなくなる。10%は、20%、30%と、またたくまに患者の比率を増やすからである。

 性病を恐れるがゆえに、どの国の軍隊も性の管理は徹底している。むろん国によって、時代によって、その管理の方法は異なっている。旧軍の場合は、大体が部隊長の命令のもと、主計将校、軍医がこの管理にかかわる形をとる。慰安所建設、慰安婦募集、そして性病検査は、いわばシステム化されていて、3者のトライアングルの中で「秘密」が共有されるケースが多い。ここが密閉されれば、管理の実態はわからない。

 今回の慰安婦問題は、その管理に軍がどういう形で関与したか、慰安婦募集に強制があったかなかったか、さらにそこに植民地政策に伴う暴力性があったか否かなどの検証であったが、あえて言えば一連の慰安婦問題は全体の枠組みの中の一部でしかない。一部の事実を取り上げて全体化する、いわば一面突破全面展開の論争でしかなく、私は委員の一人として極めて冷めた目で検証にあたったことを隠すつもりはない。

 1990年代の朝日新聞の慰安婦報道は、むろん朝日だけではなく、各紙濃淡の差はあれ、同工異曲の報道を続けていた。ありていに言えば、朝日はその中で、事実誤認を放置したことや取材対象者との距離のとり方が極めて偏狭だったことは事実である。私見では、他紙と比べると慰安婦報道へのアプローチが積極的であり、それゆえに他紙は誤認の汚名を免れた側面もあるように思う。

 委員会のこの検証は、「軍隊と性」というテーマを具体的に確かめていくわけではなく、いわば1980年代、90年代の朝日報道を検証するだけであった。そのことは、戦後日本の「戦争報道」は、ある部分に執拗にこだわり、それが国際社会の作り出している潮流と結びついていたことを教えている。同時に、朝日報道への批判の中に、むしろ歴史修正主義の息づかいを感じて、不快であったことを付記しておきたい。

 慰安婦問題は、もっと根源的、多角的に考えることにより、日本社会の歴史検証能力は国際社会の中に独自の立場を保ち得るはずである。

 ◇全文はサイトでご覧いただけます 後日、冊子を作成します

 報告書全文と資料は朝日新聞のコーポレートサイト(http://www.asahi.com/shimbun/)でご覧いただけます。後日冊子にして、ご希望の方には無料でお届けします。数に限りがございますので、原則お一人様1部とさせていただきます。1月9日までに電話でお申し込み下さい。なお発送は1月下旬以降になります。

 お申し込みは03・5540・7616へ(日祝日、30日から1月2日は休み。23日は17時まで)。

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