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 (1940年)

 今年4月の参院予算委員会。政府が提出をめざしていた安全保障関連法案を「戦争法案」と批判した社民党の福島瑞穂議員の発言に対して自民党が反発、議事録からの削除・修正を求めた。

 福島議員の発言は結局そのまま残されたが、国会内での議員の発言が問題視されて議事録から消された例は過去にもある。そのうち最大の事件に発展したのが1940(昭和15)年、斎藤隆夫の「反軍演説」だ。

 兵庫県但馬地方の農家に生まれ苦学の末に衆議院議員となった斎藤は、男子普通選挙制の実現に尽力。軍部の政治介入を徹底的に批判し国家総動員法に反対するなど、立憲政治家として知られていた。

 2月2日、衆院本会議。斎藤は質問演説で、政府・軍が日中戦争の収拾を誤り長期化を招いたと厳しく論難した。陸軍は「聖戦の目的を侮蔑するもの」と猛反発した。

 議会と政党は軍に迎合する。議長は演説の3分の2以上を議事録から削除。労働組合を基盤とする無産政党の社会大衆党も、斎藤の除名を率先して求めた。やがて大勢に従う形で、斎藤自身が属する民政党も除名賛成を決めた。

 斎藤の除名は3月7日の本会議で採択された。賛成296、棄権・欠席144。反対はわずかに7票だった。

     *

 「政党政治の自殺です。世論はまだ政党を見限っていなかったのに、政党の方が自分で自分を見切ってしまった」

 学習院大学の井上寿一教授(日本政治外交史)は、議会と世論のズレを指摘する。戦時色が深まる中でも、36、37年にあった2度の総選挙では軍部と距離を置く民政党が第一党となり、社会大衆党も躍進していた。ところが斎藤除名問題を契機に、近衛文麿らの「新党運動」が加速化。半年を置かず各党は次々と自ら解党を宣言して大政翼賛会へとなだれこんでいった。

 「戦前戦後を通じて、民意というのは案外冷静で、極端にブレることはありません。むしろ政党の方が、そうしたバランス感覚を見誤り、日本を破局に導いたのです」

 除名から2年、日米開戦後の総選挙に斎藤は大政翼賛会非推薦で出馬し、見事にトップ当選を果たした。

 斎藤の兄のひ孫で、斎藤隆夫顕彰会理事の斎藤義規さん(64)は「斎藤は手弁当で応援する青年たちにずっと支えられていたんです」。男子普通選挙制が生んだ新しい有権者層が、斎藤の分厚い支持基盤となっていた。斎藤は除名後も「私の演説は一言半句たりとも世の非難を受くべきものはない」と動じなかった。

 法政大学の山口二郎教授(政治学)は「戦前戦中でも、志のある政治家は有権者と理念で結びついていた。現在の国会は安保法制への賛否など見ても、世論を反映していないのでは」と言う。

 国会審議でも、政府側の答弁には緊張感が見えないという。「斎藤は全身全霊をこめた演説に、政治生命を賭けた。今は政治家が言葉を大切にしない。自らヤジを飛ばして陳謝するなど、安倍首相の姿勢はあまりに軽い」

     *

 斎藤は敗戦後いち早く、政党の再建に動いた。自民党の母体の一つとなった日本進歩党の結党式で、斎藤は座長としてこうあいさつしている。

 「政党が弱いから軍部、官僚の一撃に遭うて、直ちに崩壊してしもうた。それのみではない。われわれは、われわれの力によって、軍国主義を打破することができなかった。ポツダム宣言によって、初めてこれが打破せられた」

 斎藤はそれを「世界に対するわれわれの恥辱」と語った。戦後の政党政治は、そこから出発したのである。

 (樋口大二)

 ■命懸けの覚悟、感じた ジャーナリスト・むのたけじさん(100)

 この当時、私は25歳で東京朝日新聞の記者。所属は社会部でしたが政治の記事を書くこともあり、反軍演説も傍聴席で実際に聞きました。

 斎藤さんはすでに2・26事件を批判する「粛軍演説」でも名を知られており、その彼がいよいよ腹を固めて軍部を批判するらしい、というので傍聴席は満席。非常な緊張感に包まれていましたよ。

 彼は身長が150センチばかり、小柄で控えめな方でしたが演説を始めると人が変わったようになる。このときは特に、話すうちにどんどん背が伸びて大きくなっていくようにさえ見えた。場合によっては命までも失う覚悟だと感じ、私は大いに感銘を受けました。

 その迫力は多くの人々に伝わったんじゃないでしょうか。彼の元には全国から激励の手紙が八百通以上も寄せられたといいます。それなのに議会の方が除名処分にしてしまったのだから、情けないことです。

 ただし7人の議員が反対票を投じたというのは、そんな中でもあるべき姿を示した人がいたということ。主権在民ではなかった旧憲法の下でさえ、筋を通してがんばった政治家はいたんです。いまの国会はどうでしょう。安保法制をめぐる議論を聞くと、日本は再び誤った道を歩むかどうかの瀬戸際にいる。主権者たるわれわれ国民自身が、声を上げなくてはいけません。

 ■演説で問題視された部分

 斎藤の演説で、特に問題視されたのは次の箇所だった。「ただいたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰(いわ)く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、かくのごとき雲を掴(つか)むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば……」

 この後、議場内ではヤジが飛び、議長が再三「静粛に願います」と注意を促したという。演説は1時間半にも及んだが、これらの部分は当日の晩に速記録から削除され、一部の地方にのみ配達された早刷りの紙面を除いて報道されることはなかった。東京朝日新聞もただ「斎藤氏質問中に失言」とだけ報じた。削除について斎藤は自身の回顧録で「実に不都合千万なる処置であって、これがために国民大衆は私の演説の内容を知らずして怪訝(けげん)の念を抱き」と憤りの思いを記している。

 ◇次回は「ギャル文化」の予定です。

 <訂正して、おわびします>

 ▼6日付「あのときそれから 斎藤隆夫の反軍演説 議会除名、翼賛体制へ加速」で掲載した写真のうち、「(上)1940年2月2日、衆院本会議で質問演説する斎藤隆夫」の写真は誤りでした。1948年3月22日の衆院本会議で一般質問する斎藤隆夫の写真でした。正しい写真を掲載します。

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