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 新聞記者は私的な感情を排し、客観的な事実のみを伝えるべきでしょうか。それとも、個人的な体験や価値観も交えて、独自の視点で語るべきでしょうか。政治部次長・高橋純子さんは、その両方が必要だと言います。

 「政治断簡」(日曜朝刊4面)の高橋さんのコラムは、大きな反響を呼びました。2月28日、3月27日、5月1日とこれまで3回掲載されていますが、全回を通じて、読者からの反応は「品がない」「記事を私物化するな」「政治部次長が書いた文章とは思えない」などの批判と、「応援したい」「反骨精神とウィットに富んでいる」「楽しみにしている」などの支持に分かれています。

 船本洲治という活動家のエピソードを引いた2月28日の「だまってトイレをつまらせろ」は、週刊誌で批判的に取り上げられたことがネット上でも話題になりました。

 高橋さんはどんな意図で記事を書いたのか、話を聞きました。

 ――大きな反響がありましたが、予想していましたか?

 日曜掲載のさほど大きな欄ではないので、ここまでの反応があるとは意外でした。

 ――批判的な意見もありましたが?

 私も担当していた社説などの無署名の記事は、書き手のパーソナリティーが前面に出ると伝わりにくくなります。一方、記者が私見であると明示して思考の軌跡を示し、読者に考えるきっかけを持ってもらうという伝え方もあります。「政治断簡」はそのような記事だと考えているので、批判も含めて何らかの反応があったのは良かったと思います。

    *

 ――「だまってトイレをつまらせろ」には、例えが下品だとか意味がわからないという意見も寄せられました。あのエピソードを引いて、何を伝えたかったのですか?

 世の中に対して、それぞれの答えがあっていいのだということです。「だまって……」は「自分より強い立場にある人の意図を忖度(そんたく)するな。どう生きるかは自分で決めていい」ということを示す印象的な比喩として例に引きました。

 ――「それぞれの答えがあっていい」とは、どういうことですか?

 他人、特に権力者の意図を忖度して、自分の気持ちを「あるべき型」に封じ込めてしまうと、その鬱憤(うっぷん)をより弱い立場の人にぶつけていくことにもなりかねません。自分がイヤだと思ったことには、イヤだと言っていいですし、好きなものは好きだと言っていいはずです。それぞれの生きる実感が尊重される社会が望ましいと考えています。

 ――政治部次長という責任ある立場なのだから、客観的に政治を分析するような記事を書くべきだという意見もありましたが?

 政治部次長として記事を書く、という意識はありません。組織の肩書にふさわしい書き方があるとも思いません。「政治断簡」のような顔と名前を出したコラムでは、批判されるリスクをとって「私の場合はこう考えた。あなたはどうだろうか」と率直に読者に問いかけることが大事だと考えています。

 ――「なんつって」「だよなあ」などの話し言葉は、意識して用いているのですか?

 特に意識していません。客観的な事実を伝える記事を書く時と、主観を述べる記事を書く時では当然文体が異なりますし、特定のスタイルを決めているわけでもありません。

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 社内でも、賛否両論のようです。支持する声の一方で「記者は、あくまで取材に基づいた話を書くべき」「政治部次長は、反権力的な視点ではなく、中立的な意見を」などの批判があったとのこと。

 話を聞いたのは4月下旬。その後に掲載された5月1日付の高橋さんの「政治断簡」には「くくるなナメるな勝手に決めるな」という言葉があります。

 さて、あなたはどう感じたでしょうか? 言葉遣いが記者らしくない? 女性らしくない? 内容が政治部次長らしくない? 新聞らしくない?

 何かに対して「らしくない」「いやだ」と感じるのは、こうあるべきだと信じるものがあるからです。何を信じるかは、あなたの自由。人に押し付けられるのは、嫌ですよね? 支持や賛同、そして反発や嫌悪も、自分の本音を知るための材料です。私はそんな思考の場を提供するのも、新聞の役割だと思います。

 読めば何かを言いたくなる高橋さんの「政治断簡」はアリか、ナシか。これからも評価が分かれそうです。

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 こじま・けいこ タレント、エッセイスト。1972年生まれ。95~2010年、TBS勤務。近著に「女の七つの大罪」(林真理子氏との共著)。

 ◆原則、第3火曜に掲載します。

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