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 ■憲法を論じるとは「危険物」を扱うこと

 ――憲法学者として、本格的に仕事が始まります。

 比較憲法学が私の専門。各国の憲法が根を張っている歴史や文化を考えながら、それぞれの違いを論じていくんです。

 1975年、私の「近代立憲主義と現代国家」が日本学士院賞を受賞しました。その時の賞金を旅費に充て、清宮四郎先生を50年ぶりのヨーロッパにお誘いした。人生初の国外での講演を経験しました。

 ――80年、東大へ「移籍」。

 ずっと暮らしてきた仙台を離れるのは勇気が要った。医学部教授の木下杢太郎は「東京に来たりしこと、失敗なりしなり」と悔やんだと言うが、最後は「その時はその時」と。

 家族ぐるみで付き合ってきた同僚たちとの別れはつらかった。「2人で東北大をリードしていこう」と語り合っていた、藤田宙靖(ときやす)さん(行政法)は、「樋口さんが東京の猥雑(わいざつ)な空気に出て行ったら危ない」と案じてくれました。そこで私は「東京で自分を律するルール」を定めた。一、発言するメディアは極力、限定する。二、関わりたい学者や市民の活動や集いがあっても、可能な限り控えめにし、知恵を貸すのみにする。

 ――ご家族も一緒に?

 単身赴任だよ。妻の樋口晟(せい)子は社会学者で、東北福祉大の教授だし。料理、掃除、洗濯、自分で一通りできたけど、ボタン付けだけは近くの酒亭の女主人に頼んだことがあったな。

 ――東大と東北大の違いは。

 どちらも研究が中心だが、東大は講義重視が徹底していた。東大法学部は80年代半ばには1学年が600人程度。バブル景気へ向かう浮ついた時代、それでも大講堂で私を囲む学生たちの目つきは鋭かった。私の言葉を黙々とノートに写す。権力の中枢に入る我々に、この教授は何を語るのか、という姿勢で来る学生もいる。張り詰めた空気があったね。一方で、うれしいことに「憲法の研究を一生の仕事にしたい」と、私のもとに来る殊勝な学生もいた。初めはわざと彼らの意欲をくじこうとしました。憲法を論じるとは、「危険物」を取り扱うということ。重圧のあまり論文が書けなくなる人だっているんだぞと。

 ――「危険物」とは。

 近寄りすぎは危ないが、中途半端な関心では研究も焦点を結ばない。学者として発言する時の責任。あるいは逆に、黙ってやり過ごしてしまうことの責任を、どう考えるかです。

 清宮先生はよく「スケベ根性出すな」と教え子たちに言っていました。憲法学者が権力との距離を測り誤ったら、そこでおしまいなんだと。先生自身も、岸政権下で57年に内閣直属の組織として発足した憲法調査会の誘いを断って、あえて宮沢俊義先生らと民間の「憲法問題研究会」を組織したのだから。

 マックス・ヴェーバーも「教壇禁欲」を唱えていた。ただ、私の周囲で育っていった若い世代には、先生の言う「スケベ」ではなく、仕事自体が「学問的セックスアピール」を発散しているような面々がいる。その先を知りたい、論じたいという知的欲望の発露。それは外から見ると、色気のようなものに映るんじゃないだろうか。

 (聞き手・寺下真理加)=全10回

 

 <訂正して、おわびします>

 ▼6日付「人生の贈りもの わたしの半生」の「憲法学者 樋口陽一(81)<6>」の記事で、「藤田宙晴(ときやす)さん(行政法)」とあるのは「藤田宙靖(ときやす)さん(行政法)」の誤りでした。確認が不十分でした。

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