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 2人が長崎大学で出会わなかったら――。1965年入学の椛島有三(かばしまゆうぞう)(71)と、翌年入学の安東巌(あんどういわお)だ。安東の年齢は明らかでない。

 2人は新宗教「生長の家」を信仰していた。生長の家は当時、反共愛国をうたい、「生長の家学生会全国総連合」(生学連、66年結成)もまた、民族派学生団体として存在感を示していた。

 安東は69年、生学連新聞に「学園正常化への闘い」という回想文を寄せている。

 〈「てめえら、どういう考えでこんなビラ配るんだ!!」バシッと言う平手打ちと共に椛島さんの身体が横倒しになった。今朝まで徹夜して作った2千枚のビラがバラバラとなり踏みにじられる。昭和41年7月3日、長崎大学正門前での事である〉

 〈この日のことを僕は永久に忘れない。なぜなら、この事件こそが、僕等をして学生運動正常化に走らしめた直接の原因だからである。それは、学館問題で騒然としていた大学を憂え、椛島さんと僕の2人で学園正常化有志会を結成。「デモ反対・全学連反対」のビラを配ろうとした矢先のリンチであった。(中略)僕が全学連打倒を決意したのはまさにこの時である〉

 ここに書かれた「昭和41年」は1966年。ビートルズ来日公演が社会現象になる一方で、70年安保に向けた左右の闘争準備が進み、各地で小競り合いが頻発していた。長崎大もその一つだった。

 その模様を記した安東は、長い闘病の末、20代後半で大学生になった。民族派学生運動のカリスマとされ、その後、教団幹部に進んだ。

 一方の椛島は70年、生学連出身の仲間らとOB組織「日本青年協議会」を結成。97年の「日本会議」設立以来、事務方トップに立ち続ける。

 長崎大生だった2人は、リンチを受けた怒りをバネに、学生自治会の選挙に取り組んだ。10月の選挙では、仲間を委員長に擁立して364票を獲得し、293票の対立候補を破った。国立大初とされる民族派の自治会が誕生した。

 2人はこの勝利に満足しなかった。「原理研究会」(世界平和統一家庭連合=旧統一教会=の学生組織)などと協力して「長崎大学学生協議会」(長大学協)を結成。サークル横断の「学協方式」という戦術を編み出した。

 ビラ、新聞、講演会、学習会を駆使する学内マスコミの確立……。組織的な戦術は「ひな型」として、生学連ネットワークで全国に広がった。各地の大学で自治会掌握をめざす行動が相次いだ。

 現首相補佐官の衛藤晟一(69)、元自民党衆院議員の井脇ノブ子(70)、憲法学者の百地章(70)、安倍首相のブレーンとされる伊藤哲夫(69)たちだ。教育学者の高橋史朗(65)も後に続いた。

 そんな椛島と安東に、早くから注目する早大生がいた。後に新右翼「一水会」代表になる鈴木邦男(73)だ。当時、生学連書記長として、長崎大を何度も訪れた。「自治会選に勝つなんて思ってもみない。そこで勝った。戦略、行動力ともすごい人たちだった」と振りかえる。=敬称略

 (藤生明)

 <訂正して、おわびします>

 ▼9日付総合2面「日本会議をたどって(2)」で、「安藤の年齢は明らかでない」とあるのは「安東の年齢は明らかでない」の誤りでした。確認が不十分でした。

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