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 第99回全国高校野球選手権大会がきのう、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で幕を閉じた。

 9回2死からの逆転劇や延長戦での激闘もあった。点差が開いても最後まであきらめず、全力を尽くす姿は、見る人の胸を打ち、スタンドから連日、惜しみない拍手がおくられた。

 3839チームの頂点に立ったのは花咲徳栄。埼玉県勢として初の栄冠だ。

 初戦を突破した後の13日、同校の選手たちは大阪府吹田市の市立平和祈念資料館を訪れ、戦時中の生活を伝える資料を手にした。社会科を教える岩井隆監督が「野球ができることへの感謝を忘れないで欲しい」と考えた。3回戦まで進んだ去年の夏も、選手を伴って戦争資料館「ピースおおさか」(大阪市)に足を運んでいる。

 準優勝した広陵(広島)の選手たちは開幕前の6日、広島に原爆が投下された午前8時15分にあわせて、甲子園の室内練習場で一列に並び、広島の方角を向いて1分間黙祷(もくとう)した。

 横浜の4番打者・増田珠(しゅう)君(3年)は長崎市の中学出身で、祖母は広島で被爆した。長崎原爆の日の9日午前11時2分、練習を一休みして黙祷し、言った。「今、野球ができることに幸せを感じています」

 夏の甲子園大会は、期間中に「終戦の日」を迎える。

 今年の15日は天候不良で試合が中止になったが、三本松(香川)の選手たちは正午に練習を中断し、目を閉じた。

 甲子園にはかつて「聖戦完遂」など、戦意高揚のための看板や垂れ幕が掲げられたことがある。日中が全面戦争に突入した1937年ごろからだ。

 41年の第27回大会では、地方大会が始まりながら「戦局深刻化」で中断した。

 45年8月、阪神地域への空襲の後、スタンドは焼け焦げ、グラウンドに無数の焼夷(しょうい)弾が突き刺さっていた、という西宮市民の証言が残る。

 戦死した元球児もいる。球児たちの夢も、命も奪った戦争の歴史を忘れてはならない。

 大会は終戦の翌年に西宮球場で復活したが、甲子園は占領軍に接収されていた。47年、グラウンドとスタンドの接収が解除され、大会は7年ぶりに甲子園で開催された。

 それから70年。甲子園では毎年8月、選手たちが黒い土と緑の芝の上で懸命にプレーし、数々のドラマをつむいできた。

 来年の夏は第100回の記念大会を迎える。これからも、高校球児の夢の舞台が二度と途絶えることがないようにしたい。

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