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 「私が“天下の大新聞”に何か言ったところで、どうせ聞く耳なんか持ってくれないだろう」――若いころ、私はそんなふうに思っていました。新聞に何を載せ、どう書くかは、新聞社のプロたちが判断するもので、私のような素人が口をさしはさむ余地などない、と。実際、読者からの意見の中にも「伝えるべきことをしっかり伝えてくれればよく、読者におもねる必要はない」といった声があります。

 しかし朝日新聞社自身は、今はそう考えていません。朝日新聞社は「ともに考え、ともにつくるメディア」を目指すと言っています。千葉光宏・執行役員(広報・環境担当)はその理由を、「新聞の編集権は何者からも独立していなければならないが、それは一歩間違えば独善を招く。両者は紙一重」だからだと説明します。そのリスクが顕在化したのが2014年の記事取り消しなど一連の問題でした。「ともに」には、独善への戒めが込められているわけです。

 「ともに」とは「協働して」という意味でしょう。では、誰と協働するのか。多様な利害関係者が考えられますが、その第一は読者でしょう。では「読者と協働して」とは、具体的に何をするのでしょうか。

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 「声」欄や「フォーラム」面もありますが、それ以外にも、たとえば「お客様オフィス」に日々寄せられる意見がきっかけになって記事ができた事例はないのか。そうした事例が目に見えれば、読者は「ともにつくる」ことが具体的に実践され、単なるお題目に終わっていないことを実感できる――。そう考えてパブリックエディター事務局スタッフに調べてもらいました。

 お客様オフィスには平日で200本以上のメールや電話があり、「読みにくい」「分かりにくい」という声がレイアウト上の工夫や解説記事につながった例は多々ありました。事件関係者からの情報提供(いわゆる「タレコミ」)もよくあります。

 また、「声」や「ひととき」欄への投稿や記者自身の家族の愚痴、取材先での世間話などをきっかけに別の記事に発展した事例は、たくさん挙がってきました。特に錦光山雅子記者の「公立中学校の制服代の地域差」を調べた一連の報道や、「24時間 親が付き添い? 子どもの入院時」(9月27日朝刊)は、別の取材から派生した疑問点をツイッターなどで投稿し、読者らからの情報を集めて記事にしていました。単に「指摘を受けて修正した」「関係者から情報が入った」というのとは違う、一般読者と記者が響き合って生まれた協働の実践例です。関わった読者はきっと、「この記事は、自分も作り手の一部」だと実感したことでしょう。

 しかし残念ながら、お客様オフィスなどに読者が日々の暮らしの中で感じたふとした疑問や悩みを寄せ、それを記者が受け止め、読者と協働して新たな視点や発想の記事をつくりあげていったという事例は、最近の記事を調べたかぎりでは見つかりませんでした。あるのかも知れませんが、事例を蓄積する仕組みがないので「分からない」というのが実情のようです。

 これは、いかにももったいない事態だと感じます。かつての私のように、新聞の作り手を遠い存在と感じている読者はおられると思います。それで不満はないという読者も多いでしょう。しかし、朝日新聞社は誰から強いられたわけでもなく、自らそれを乗り越えたいと言ったのです。「読者と協働する」と。だとすれば、「ともに」を体現した実践例を集め、年に1度でもいいから読者にも紙面で示し、よい事例については社内で顕彰もする。「ともに」をお題目で終わらせないためには、そんな「見える化」による意識の浸透とノウハウの蓄積が必要ではないかと思います。

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 いま、若い人たちを筆頭に“天下の大新聞”は実は“裸の王様”だったんじゃないかと疑う人が増えています。「自分には伝えるべきことが分かっている」という自負は、一歩間違えば独善かもしれないというのが、14年の教訓でした。“裸の王様”にはならないというのが新生朝日新聞の誓いで、そのために「ともに」が重要なのだとすれば、それを裏付け、社内外に広く普及・浸透させる仕組みを作るべきだと思います。そうでないと「本気度」を疑われてしまいます。

 「『丁寧に説明する』と言ったのにしていないじゃないか」とする安倍晋三首相への批判をこの間、朝日新聞紙上で繰り返し見てきました。そう言っている朝日新聞自身が「『ともに』と言ったのにしていないじゃないか」と言われぬよう、しっかりと歩を進めていただくことを期待します。

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 ゆあさ・まこと 社会活動家。法政大現代福祉学部教授。1969年生まれ。著書に「『なんとかする』子どもの貧困」「反貧困」など。

 ◆原則、第3火曜に掲載します。

 

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