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 「全国優勝野球大会/来(きた)る八月中旬豊中に於(おい)て挙行」

 異例の社告が1915年7月1日付大阪朝日新聞に載った。

 ――野球はわが国に来てそう長くないうちに今日のような隆盛を見ている。……だが、全国の代表的健児が一場に会して溌剌(はつらつ)たる妙技を競う全国大会の催しは見ない(原文は文語体)。

 新聞1面に4日間も続けた大型社告がうたった全国大会。「6月末に30分ほどの話し合いで決まった」など、発案者や経緯にいくつか説がある。だが、社内の記録によれば、社長の村山龍平が開催の意思を固めたのは早くて1カ月前。社告を書いた社会課(現社会部)員の田村省三(号・木国)は、7月初旬に西日本を巡回し、各地の伝統校に参加を要請している。

 まさに泥縄式の準備だった。

 ほどなく、秋田中(現秋田)に一通の招待状が届く。前年8月に同校が東日本を遠征し、強豪相手に6勝1敗1分けの好成績だったためとされる。主将の渡部純司らが校長に懇願し、「参加」と回答。だが、主催者から「対戦成績を送れ」と指示される(渡部の生前の証言)。当時、正規の大会は秋にしかなく、急きょ県内を遠征し、横手中(現横手)に18―5、秋田農業(現大曲農)に13―0で勝ち、7月末に報告したところ「東北代表」に決まったという(8月2日付大阪朝日)。

 東京は、出版社「武侠(ぶきょう)世界社」が春に開いた大会で優勝した早稲田実が代表。東海は5県の大会が10年以上前からあり、優勝校で三重四中(通称山田中、現宇治山田)が選ばれた。関西は、2年前から運動具店の美津濃商店(現ミズノ)が「関西学生連合野球大会」を開いており、大阪朝日が地方大会を開けなかった大阪、奈良、和歌山はこの大会で代表校を決めた。だが、大会では兵庫大会で敗退した神戸一中(現神戸)が、既に全国大会代表に決まっていた神戸二中(現兵庫)や京都二中(現鳥羽)を破る事態に。代表10校の第1回大会は異例ずくめだった。(編集委員・永井靖二)

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