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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 第1回大会で準優勝した秋田中(現秋田)の選手らは決勝の翌日(1915年8月24日)、「また来年!」の声を残し、夜行列車で郷里へ発った。

 「秋田へ帰っても特段の歓迎会はなかった」と、主将の渡部純司は86年6月、出版社の取材に答えている。「でもね、僕らが全国で決勝まで行き、それから秋田は中学以外でも野球が盛んになったんだ……」(録音テープ)。声は誇らしげだった。

 先輩の勧めもあって渡部は16年春、慶応大へと進学し、野球部に入ったと語る。

 その夏、第2回大会で優勝したのは慶応普通部(現慶応)。チームには大会初の外国人選手、米国籍のジョン・ダンがいた。優勝の原動力となったエース山口昇は大学の試合でも投げていた。ただ、彼らと渡部と面識があったかは分からない。

 実はその頃、渡部の関心は陸上競技に向いていた。翌年5月に、中華民国、フィリピン、日本による第3回極東選手権競技大会が初めて東京で開かれる予定だった。慶応普通部の優勝を報じた5日後の16年8月26日付大阪朝日新聞に、極東大会の予選日程を告げる記事が見える。

 秋田中で一番の俊足だったという渡部は、220ヤード(200メートル)低障害競走の選手として国際大会を目指した。慶応大の記録によれば、同年9月2~3日に予選も兼ねて東京・芝浦で開かれた全国陸上選手権で、渡部は30秒0の記録で優勝。極東大会への出場を果たす。大会には慶応からOBも含めて7人が出場したが、リレー以外に3位までの入賞者はなかったという。

 そんな折、郷里で問題が持ち上がっていた。実家は、れんがや土管などの建材を窯で焼く製陶業だった。長兄が教職に就いたため、渡部が家業を継ぐよう求められた。渡部は大学を中退し、郷里秋田へと戻った。

 そして終戦直後まで、渡部は淡々と家業をこなす日々を送った。だが、大学時代に陸上競技に取り組んだ経歴が後年、彼を再び野球へと結びつける一つの力になる。(編集委員・永井靖二)

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