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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 第1回大会準優勝の秋田中(現秋田)の主将渡部純司は、慶応大に進学するものの中退し、郷里で家業を継ぎ、れんがなどの建材を窯で焼く生活を送った。「壺座(つぼざ)」の屋号で呼ばれるその工場は、秋田市街の南を流れる大平川の南岸にあった。

 結婚し、1男3女の父となった。長男の渡部宏造(83)=埼玉県北本市=は「朝出かけて昼飯に戻り、また夕方まで働きに行く。その繰り返し」と振り返った。周囲は全国準優勝という経歴を知っていたが、自らその話をすることも、学業中断の鬱屈(うっくつ)を漏らすこともなかった。

 自宅から数百メートル離れた工場には、内部を人が立って歩けるほどの大きさの窯が2基あった。燃料は松の木。工場内は夏場、灼熱(しゃくねつ)の暑さだった。

 年々戦時色は深まり、やがて開戦。戦局が悪化して妻子はみな郊外へ疎開したが、渡部は残って仕事を続けた。

 1945年8月14日の夜10時27分から15日午前2時39分にかけ、秋田市土崎港の日石秋田製油所を標的に、米軍の爆撃機約130機は爆弾約1万2千発を投下。空襲は市街地にも及び、少なくとも民間人93人を含む250人の死者が出た。大阪・京橋や小田原(神奈川県)などと並んで「日本最後の空襲」と呼ばれた土崎空襲だった。夜が明けて正午に、戦争は終わった。

 戦後復興は渡部の家業には追い風にならなかった。「燃料の松の木も手に入らなくなった」と、渡部は86年6月に受けた取材の録音テープで話している。敗戦から数年で廃業に至った。

 県は雇用促進も兼ね、秋田大の敷地内に野球場と陸上競技場を50年に造成する。県土木部長を経て51年に2代目公選知事になった池田徳治は、秋田中野球部で渡部の5年先輩。池田は失職中だった渡部に「陸上と野球、両方やったんだから、管理人になってくれ」と、声をかけた。大学時代の一時期に取り組んだ陸上の経験が縁になった。

 長い中断を経て、渡部は再び野球漬けの日々を送ることになった。(編集委員・永井靖二)

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