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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 第1回大会準優勝の秋田中(現秋田)の元主将、渡部純司は、秋田大に隣接する野球場のグラウンド整備に喜々として後半生を捧げた。

 午前中に試合がある日は、午前3時に起床して土をならし、散水して白線を引いた。渡部と家族はネット裏にあった木造平屋の管理人宅で暮らし、審判は管理人宅で着替えた。

 「もっと前だ」。練習中の同大野球部員によく声をかけ、近くの母校・秋田のグラウンドにも通った。部員らもよく渡部宅へ報告に行った。秋田から同大へ進んだ元野球部員、牧野三千雄(67)は、渡部への聞き取りも交えた「秋田県野球史」を原稿用紙300枚の卒業論文にした。牧野は彼を「野球と生きた人」と評する。

 1970年7月12日付朝日新聞運動面に、渡部を「七十三歳の青年」と呼ぶ記事がある。「もし野球が、この世から絶えていたら、私はどうなっていたか、といつも考えるんです……酒飲みになっていたでしょうね。グラウンドのライン引き、選手との話(はなし)合い、こんなに楽しいものはない。だから、つい酒はおぼえるひまがなかった」と渡部は語っている。

 甲子園へ複数回、母校を応援に行った。73年8月13日、第55回大会の応援席にもいた。「食い入るように、甲子園の土を見ていた」と同伴した同大野球部OBの藤川長敏(66)は語る。

 晩年は埼玉県北本市の長男、宏造(83)宅に同居。92歳で医師に止められるまで自転車を乗り回した。最晩年、耳が遠くなった渡部は入院中、野球中継が始まると必ずテレビがある待合室へ出て来て音量を最大にし、その都度医師から叱られた。

 93年12月22日、渡部は静かに息を引き取った。享年97。栄華も富貴も関係ない球児の生涯だった。「父にとって野球は生きがいであり命そのものだった。そして父が愛したのは戦争がなく、野球に打ち込めた平和な時代だった」と、東京都杉並区に暮らす長女の渡部麗子(81)は語る。(編集委員・永井靖二)

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