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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 《第2章》

 1917年7月、第1次世界大戦は4年目に突入した。その夏の世界も多事多難だった。

 同月6日、英将校ロレンスは敵オスマントルコの反乱軍を指揮し、要衝アカバを占領。一躍「アラビアのロレンス」として名をはせた。年初の2月革命でロマノフ王朝が滅んだロシアで16日、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)の労働者約50万人が「全権力をソビエトへ!」とデモ行進。11月に起こる共産主義革命の導火線となる。

 米国は上院で禁酒法の議論が大詰め。大戦特需の日本では「成金(なりきん)税」が取りざたされていた。8月17日付大阪朝日新聞は「成金が増え、戦前の五倍十倍の利益があり直接間接に戦争から被る利益は非常なものがある」(原文は文語体)と、推進論を打つ。貧富の差が、対立の火種になりつつあった。

 そんな折に開かれた第3回全国中等学校優勝野球大会。舞台はこの年から、兵庫県西宮市の鳴尾球場に移った。優勝は、東海代表の愛知一中(現旭丘)。実は一度負けながらの栄冠だった。

 愛知一中は初戦で長野師範に3―4で敗れたが、当時あった敗者復活戦で和歌山中(現桐蔭)に勝利。その後は順調に勝ち、決勝で兵庫の関西学院中(現関西学院)と対戦する。だが、この決勝も薄氷を踏む勝利だった。

 8月19日にあった試合は六回表、関学中が1点を先取。その裏、大会屈指の好投手の内海寛は2死を奪うも、四球を与えたところで、突然の大雨となり試合は中止に。「規則ではあと一つのアウトで勝負が成立し、夢にまで見た優勝が決まるところであった」と「関西学院スポーツ史話」は悔しがる。

 翌日の再試合は、0―0の延長十四回表、愛知一中が2死から決勝点を挙げ、関学中は涙をのんだ。愛知一中の主将・長谷川武治は戦後、「当時の審判がハカマ姿のため雨で試合中止となったのが幸(さいわい)した」(大会40年史)と回想する。敗者復活戦は同年で廃止。関学中は雪辱を期した。(編集委員・永井靖二)

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