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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 選手達(たち)の涙ぐんだ痛ましい絶望した顔を見て何(ど)うして我々は泣かずにゐられやう――。

 1917年8月20日、関西学院中(現関西学院)は優勢だった第3回の決勝を突然の強雨で中断され、再試合で延長14回の末敗れた。応援席にいた山本賢治は学友会誌にそう記す。

 同校野球部は雪辱に燃えた。決勝の翌日、部員らは中国大陸への遠征を告げられる。大会前からOB有志らが内密に進めていた計画が、強化策の第1弾となった。部員らは8月27日~9月16日、日露戦争で日本が権益を取得した中国東北地方を転戦し、大連商業や満鉄倶楽部(くらぶ)などと計8試合を戦っている。

 新学期には大阪の公立校・市岡中(現市岡)の投手、松本終吉が転校してきた。

 松本は前年の第2回大会2回戦で、東北代表・一関中(現一関一)戦で全国大会初のノーヒットノーランを達成していた。「移籍」の経緯は不明ながら、「関西学院スポーツ史話」は「まさに鬼に金棒というべし」と喜ぶ。

 現在は日本高校野球連盟の規定で原則として転校後1年間は公式戦に出られない。だが、当時は違ったようで、「市岡野球部八十年史」は「この頃は野球部員の出入りが激しい。……来る者は拒まず、去る者は追わず」と記している。

 同じ時期、政権とメディアはとげとげしい関係にあった。

 前年の16年10月9日に発足した寺内正毅(まさたけ)内閣は長州閥政権だった。初代朝鮮総督のタカ派。流行中のビリケン人形に似た顔と武断政治から「ビリケン(非立憲)内閣」とあだ名された。

 同28日付大阪朝日新聞夕刊は「◇寺内内閣は探偵政治の第一着として新聞記者の閲歴性行調査を為(な)さしめ居(お)れり◇成程(なるほど)寺内内閣の鬼門は、慥(たしか)に新聞記者なり」と、記者の身辺を調べ回る手法を皮肉っている。組閣後9カ月足らずで、新聞紙法や出版法違反に問われた事例は60件超。世情は対立と騒乱の芽をはらむなか、第4回大会が近づいてきた。(編集委員・永井靖二)

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