[PR]

 オウム真理教をめぐるすべての刑事裁判が終結することになった。最初の公判から22年半。192人が罪に問われ、うち13人に死刑が言い渡された。

 一連の犯行が社会に突きつけた課題は数多い。そのひとつに「組織と個人」の関係がある。教団は、それを極めてグロテスクな形で映し出した。

 「救済のためなら殺人も許される」という教えを信じ、進んで犯行に加わった信徒がいる一方で、幹部からの命令について「意味を説明されることはなかったし、自分から問うこともなかった」「ただ忠実に従った」と語る者も多かった。

 サリンの製造を手伝った信徒の、こんな言葉もある。

 「これが自分に与えられた仕事。それさえしていればいい」

 組織の歯車となって指示に従う。一人ひとりにはさしたる動機も、逆に疑問や忌避の思いもない。殺人行為とはむろん同列に論じられないが、同じような心性は企業や役所の不正でもしばしば見受けられないか。

 ユダヤ人虐殺を日々の仕事として淡々とこなしたナチスの戦犯を、裁判を傍聴した政治思想家ハンナ・アーレントは「凡庸な悪」と表現した。その言葉を思い起こさせる。自分の頭で考えるのをやめ、何者かに判断をゆだねてしまう恐ろしさは、毎日の生活の中にもひそむ。

 教祖である松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚の極端な思想を、前途有為な若者たちがなぜ信じたのか。罪のない多くの人を、どうしてあやめることができたのか。当初から言われていた疑問に、納得できる答えはいまだ見いだせていない。一方で、濃淡の差はあれオウムの流れをくむ複数の団体に、千数百人が今も身を寄せている。

 この間、社会の側は街中に防犯カメラを張りめぐらせて防御を固める道を選んだ。しかしそれは対症療法でしかなく、表向きの安心・安全の裏で、息苦しさももたらしている。

 教団は、世の中の人々を「衆生」と十把ひとからげにし、自分らが勝手に思い描く「救済」の対象とみなし、そのための手段を選ばなかった。こうした独善的な態度はオウムだけのものではなく、各地のテロ組織や狂信的な集団に共通する。

 そこに決定的に欠けているのは、人間は一人ひとり違うという当たり前の認識であり、互いの自律と尊厳を大切にする姿勢である。

 個人を個人として尊重する。

 この視点から教団と信徒の歩みをいま一度振り返り、教訓を未来に生かす道を探りたい。

こんなニュースも