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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 「米騒動」は1918年7月23日ごろ、富山県魚津町(現魚津市)で、米価の暴騰に怒った女性たちが集団で異議を申し立てたのが起点とされる。8月3日に起きた同県西水橋町(現富山市)の「女房連の一揆」が県外へ報じられ、暴動の度合いを増しながら各地へ広がった。

 「米穀取引所を襲撃す/岡山における立会後の椿事(ちんじ)」「女房一揆/飛火(とびひ)か/高松の惨状」。8月10日付大阪朝日新聞夕刊は点描する。同じ夕刊がシベリアへ出兵する浦潮(ウラジオストク)派遣軍の編成も告げる。10日付朝刊は「万歳の声と共に!!」の見出しで出征兵士らの写真を載せ、右隣に「怨嗟(えんさ)の声/米を求める凄(すご)い叫び」と神戸の対応の混乱を報道。その下には、第4回全国中等学校優勝野球大会で全14地区の代表校が決まったとする記事がある。

 11日付朝刊で大阪朝日は1面社告で予定通りの大会開催を強調。だが、9~10日に京都市、兵庫県・播州地方、愛媛県今治町(現今治市)などで騒乱が発生。11日、京都で軍隊が出動。名古屋で警官隊が抜刀した。

 神戸で外地産米の売り出しが伝票の不手際から停滞。12日付大阪朝日夕刊は「責任は鈴木商店」と報道。12日夜に神戸で、鈴木商店と隣の神戸新聞社が約3500人に焼き打ちされる。

 騒乱は兵庫代表・関西学院中(現関西学院)の野球部員も無関係ではなかった。3年生の三輪竹男の父徳太郎は、鈴木商店傘下だった神戸製鋼所の専属運送会社を営んでいた。徳太郎らは製鋼所の支配人宅を焼き打ちから守ろうと、優れた防火剤でもある味噌(みそ)を大量に集め塀全体に塗った。竹男の長男武(86)は、「おやじは生前よくその話をした」と語る。竹男は戦後、日本高野連副会長を務めた。

 報道と焼き打ちの実態を「鼠(ねずみ) 鈴木商店焼打(やきう)ち事件」にまとめた作家の城山三郎は「一鈴木商店が、天下の不満を一身に引受(ひきう)けた」と記す。14日付大阪朝日夕刊1面に「全国野球大会延期 開催日は追(おっ)て発表」の社告が出た。(編集委員・永井靖二)

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