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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 「白虹(はっこう)日を貫けり」の表現をめぐる大阪朝日新聞記者、大西利夫と、同発行兼編集人、山口信雄に対する初公判は1918年9月25日、大阪区裁判所で開かれた。検察側は同社の法廷担当記者に、新聞紙法第43条に基づいて朝日新聞の発行禁止を論告する方針を明言した。

 法廷外でも、朝日新聞への攻撃が広がった。28日、村山龍平社長が暴漢に襲われ、軽傷を負う。内相だった後藤新平の意向を受けた雑誌「新時代」は反朝日キャンペーンを展開。10月には同紙を「国賊」と呼ぶ右翼団体が演説会を開き、不買や広告不掲載を働きかけた。

 政権側から廃業を突きつけられ、大阪朝日は10月中~下旬、社長の村山龍平、編集局長の鳥居素川、社会部長の長谷川如是閑(にょぜかん)ら、幹部の退社を相次いで発表する。11月15日には、「不偏不党」を初めてうたった編集綱領を公表した。

 さらに判決を3日後に控えた12月1日、新しく編集局顧問に就いた西村天囚は「本社の違反事件を報じ、併せて我(わが)社の本領を宣明す」と題した長文の社告を1面に掲載。近年の論説が穏健を欠き、偏りがあったことを認めた。全面降伏だった。

 これを読んだ大阪控訴院検事長の小林芳郎は「もう追及するには及ばぬ、発行禁止の必要はない」と語ったという。4日、山口と大西に禁錮2カ月が言い渡されたが、同紙は発行禁止を免れた。弁護人の一人だった花井卓蔵は「大阪朝日が、唯一の弱点すなわち皇室の問題については追及されると頗(すこぶ)る苦しむ、ということを或種(あるしゅ)の思想団体に覚えられてしまったのは、かえすがえすも遺憾」と記した。

 主張を曲げ、節を折り、かろうじて社の存続を果たした大阪朝日は翌夏、第5回全国中等学校優勝野球大会を開いた。

 悲運の準優勝から3度目の挑戦となった関西学院中(現関西学院)だが、兵庫大会2回戦で敗退。神戸一中(現神戸)が代表となり県勢初の全国優勝を果たす。関西学院中は三度(みたび)、雪辱を期した。(編集委員・永井靖二)

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