[PR]

 ■ありがとう 夏100回 これからも

 米騒動による中止から2年を経て、関西学院中(現関西学院)は1920年8月19日、第6回全国中等学校優勝野球大会で悲願の全国制覇を果たした。悲運の準優勝から、3年がかりの大願成就だった。

 決勝で東京の慶応普通部(現慶応)に17―0の大差の勝利。20日付大阪朝日新聞夕刊は「無人の境を行く如(ごと)く」の見出し。立役者は強力打線に加え、主将で右腕のアンダースロー沢昇。捕手は米騒動の焼き打ちの折、父親の奔走を眼前にした三輪竹男だった。

 「人多ク迚(とて)モ電車ニ乗レザルヲ期シ武庫川マデ歩ク」。応援に行った関西学院高等学部文科教員で伝道師の村上博輔は、日記にその雑踏ぶりを記す。選手らは数百人の応援団と共に、特別電車で神戸まで凱旋(がいせん)した。

 だが、沢は重い病を抱えていた。同年春ごろから、40度近い発熱や寝汗など、肋膜(ろくまく)炎の症状に苦しんでいた。大会中は同校OBの医師が付き添った。大会本部員が心配して「大丈夫ですか」と声をかけると、沢は「大丈夫です」と答えたが、実は準決勝の後、喀血(かっけつ)していた(「関西学院高中部百年史」など)。

 沢は翌春、関西学院高等商業学部へ進学、夏に喉頭(こうとう)結核と診断される。親が移住していた台湾で療養生活を送ったが、22年1月22日、20歳で死去した。

 関西学院には成績欄が空白のままの、進学後の沢の学籍簿が残る。36年がかりで「関西学院スポーツ史話」を著した同大学名誉教授の米田満(89)は「本人に病気への無理解があったことは否めない」と残念がった。

 100年後も、関西学院の野球部員は練習に励んでいる。当時の紙面をもとに部員らに尋ねると、社会科が得意という2年の佐藤太紀(17)は「米騒動は知っていたが、先輩が影響を受けたとは」と話す。現主将で2年の三坂天真(17)は「野球に打ち込み、すべてをかけていた気持ちは分かる気がする。でもそんなに若く亡くなるなんて、どれほど無念だっただろう」と語った。(編集委員・永井靖二)

こんなニュースも