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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 全国中等学校優勝野球大会で第3回大会から使用された鳴尾球場は、1916年に阪神電鉄が整備した総合運動場の中にあった。

 第2回大会の地方大会が最盛期だった同年7月28日付大阪朝日新聞に、「東洋一の運動場/鳴尾に新設さる」という記事が載った。野球場は2面あり、スタンドは木造の移動式で「本塁左右へ組立(くみた)てられる」とある。だが、その後高まった野球人気で球場は手狭になっていた。

 大正の好況期、国内の私鉄各社は、沿線に新興住宅地や行楽施設を相次ぎ開発した。沿線の宅地分譲と並行して宝塚少女歌劇団の興行を成功させた阪急電鉄が、その代表例だ。

 ライバルの阪神は本格的な大規模開発の第1弾として22年10~11月、兵庫県が手がけた武庫川改修で生じた河川跡地を買収。車両課長だった丸山繁を米国へ派遣して研究していた、大規模野球場の計画を本格化させつつあった。「阪急への対抗心がその背景にあった」と、「阪神電気鉄道百年史」は記す。

 そんな矢先の23年8月16日に始まった第9回大会は、出場19校のうち半数以上が初出場だった。なかでも地元兵庫の代表は、鳴尾球場から2キロ足らずの場所に6年前にできたばかりの甲陽中(現甲陽学院)だった。大会初日、東グラウンド第2試合に登場し、関東代表の宇都宮商(栃木)と対戦し、相手に先取を許すも逆転で勝利する。

 17日付大阪朝日新聞神戸付録(現神戸版)は「先(ま)づ関東勢を一蹴す/甲陽健児の腕いよいよ冴(さ)ゆ」の見出し。この日の2回戦は優勝候補の一角、四国代表の松山商(愛媛)が相手だった。同紙は不利とみたか、「刀折れ矢尽くるも勝たざる可(べ)からざる試合である。奮へ甲陽!」と記した。

 甲陽中は松山商の好投手、藤本定義(後にプロ野球巨人の初代監督)に抑えられ八回終わって0―2。だが、九回表1死一、二塁から、4番岡田貴一が強振。打球は左翼席へ突き刺さった。(編集委員・永井靖二)

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