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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 「全国中等学校野球大会号/アサヒ・スポーツ 九月一日発行/再び熱狂的に読者の歓迎を受く」――。

 兵庫代表の初出場校、甲陽中(現甲陽学院)の優勝から11日を経た1923年8月31日、大阪朝日新聞夕刊(9月1日付)は、同社が発行していた月刊スポーツ誌特別号の発売を3段抜きの社告で報じた。だが、雑誌発行日の午前11時58分、関東地方を大地震が襲った。

 昼食前で炊事中だった家が多く、同時多発的に火災が発生。延焼は3日間続いた。死者・行方不明者は10万5千人を超え、なかでも東京府の同約7万人のうち約4万人は、旧陸軍本所被服廠(ひふくしょう)跡(墨田区横網)へ避難した人々が馬車までも吹き上げる巨大な火災旋風に巻き込まれ、焼死や窒息死したものだった。

 大蔵省や内務省などの官庁や東京朝日、読売など新聞社の多くも全焼、首都圏の通信は途絶した。大阪朝日が1日最初に出した号外は「東海道沼津付近を中心として近来稀有(けう)の強震」。同日の第2号外は「地震と駿河湾の大海嘯(かいしょう)(津波)/富士山爆発の変じたものか/地震から横浜大火か」だった。午後5時20分までに名古屋運輸事務所へ入った情報が東京の被害に言及。第4号外で初めて「東京全市に大火起(おこ)る/倒壊家屋多く市中大混乱」と首都の壊滅を報じた。

 東京朝日新聞は3年前に新築した社屋が焼け、芝浦の飛行場にあった社有機も全焼。社内の記録によれば、首都圏の惨状を報道するため独身で「後顧の憂いのない」若い記者9人を四つの班に分け、「帰ることはならん」と言いつけ中山道や東海道から大阪へ向かわせた。うち1班は出発直後、出会った軍隊に「朝鮮人の暴動がある」と途中で追い返されてきたため、「そんな暴動なんかありはしない、もう一度行け」と、荷物を追加して再び出発させたという。

 これとは別に浜松や大阪を発った飛行機が、東京の惨状を2日発行夕刊で伝えた。同日、東京に戒厳令。流言飛語があふれていた。(編集委員・永井靖二)

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