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 今年は北海道という行政地名が制定されて百五十年目になる。きりのいい数字だからこの地の歴史を振り返るのもいいだろう(ぼくはこの大きな島に生まれて、あちこち転居を重ねたあげく、今はここに戻って暮らしている)。

 十九世紀の後半、当時は蝦夷(えぞ)と呼ばれていたこの島を探検した松浦武四郎という人物がいた。ここからサハリンまでをくまなく歩きまわって精密な地誌を書いた。松前藩の場所請負制度という特異な統治の実態を明らかにし、それがアイヌの人々の絶滅に繋(つな)がることを警告した。

 明治維新直後の一八六九年、彼は蝦夷地開拓御用掛という職に就き、地名の選定を任された。この地に関して第一人者と認められたわけだ。

 そこで彼が提案した六つの名前のうちの「北加伊道」が「北海道」と字遣いを変えた上で採用された。

 道としたのは、古代律令制以来の五畿七道にならうものとして、いわば日本国の領土と認定するに必須の条件だったのだろう。東海道・南海道などと並ぶとなると北海道以外にはない。それを北加伊道とひねったのはアイヌ語を痕跡でも残したいという松浦の意地ではなかったか。

 彼は従五位に叙せられ、開拓判官に任ぜられた。しかし、この地の経営方針の基本として彼が提案した場所請負制度の撤廃を明治新政府は認めなかった。これが残されたのではアイヌは永遠に浮かばれない。彼は辞任し、位階を返上、東京に帰った。以後は二度と北海道に足を踏み入れていない。

 アイヌは旧土人という身分に押し込められた。この法律が廃されたのは一九九七年のことである。

     *

 その後の北海道は植民地であった。

 文字どおり民を植える地。

 流刑囚、戊辰戦争で敗れた東北諸藩の下級武士、新天地で一旗あげようという野心者ないし食い詰め者、家督相続から外れた次男三男、そういう人々が我々北海道人の祖先である。

 ここはずっと別扱いの地だった。その証拠に今も県という行政単位がない。国土交通省には北海道開発局がある。今もって開発の対象なのだ。

 ある時期まで北海道人には徴兵が免除されていた。この制度を利用して夏目漱石は本籍を北海道岩内町に置いて兵役を逃れた(この後ろめたさを、例えば『こゝろ』の主人公の心理に重ねることはできないか?)。

 中央政府にとって北海道はいつまで二級の地だったのだろう。

 太平洋戦争の末期、沖縄は国内でほぼ唯一の地上戦の舞台となった。三カ月に亘(わた)る戦闘で二十万人以上が亡くなった。その大半が沖縄の民間人ならびに沖縄で徴兵された兵士だったのは当然として、他の地域から送り込まれた中で最も多くの死者を出したのが北海道だった。一万八百余名という数字は次位の福岡県の倍を上回る。

 もともと北海道は軍事的な性格の濃い土地である。ソ連という仮想敵国を北に置いての経営だった。旭川は軍都と呼ばれたし、札幌の北海道神宮の大鳥居が北東を向いているのはロシアを睨(にら)んでのことと言われる。屯田兵もロシアを意識したものだったろう。

 だから多くの北海道の兵が死地とわかっている沖縄へ送り込まれた。早い話が北海道人は命が安かった。

 それはそれとして、明治以降、北海道の人々はよく働いたと思う。中央から遠い地で、寒冷などのハンディキャップを乗り越えて、他の都府県に劣らない地域社会を作った。

 今、都道府県別年収ランキングで北海道は三十位。物流の不利が大きいから重工業などは振るわない。その代わり、自然条件を生かした農業・牧畜と水産業が盛ん。食料自給率がカロリーベースで二百二十一%というのは全国一位である。生産額では四位になるけれど、それはつまり実質的に国民の栄養になる食料を作っているということだろう。

     *

 それでも植民地の影は残る。

 JR北海道が赤字に苦しんでいる。もともと広大な土地であり人口密度は他の都府県より格段に低い。鉄道経営が営利事業として成り立ちにくい。

 一九八七年の国鉄分割に際して、国はJR各社に持参金を持たせた。その利子で経営を支えろということだったが、後の低金利政策への転換で持参金は画餅(がべい)に帰した。JR北海道は資金不足で車両の整備もままならず、ここ数年は事故を多発している。今後については廃線の話ばかり聞こえてくる。

 現代の社会で交通権は基本的人権の一つではないのか。人々は駅があって鉄道が走っているからそこに移り住んだ。通勤、通学、通院の手段を保障することは国の責務ではないか。日本国憲法第二五条には「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」とある。

 中央から見て僻遠(へきえん)の地も住民にとっては世界の真ん中なのだ。

 <訂正して、おわびします>

 ▼7日付夕刊文芸・批評面「終わりと始まり」欄で「夏目漱石は本籍を札幌に置いて兵役を逃れた」とありますが、「札幌」ではなく「北海道岩内町」でした。