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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1923年9月1日に起きた関東大震災では、デマが乱れ飛んだ。「社会主義者及(およ)ビ朝鮮人ノ放火多シ」(1日午後3時ごろ)、「朝鮮人約二百名……殺傷、掠奪(りゃくだつ)、放火等ヲ恣(ほしいまま)ニシ、漸次東京方面ニ襲来シツツアリ」(2日午後2時ごろ)……。警視庁の「大正大震火災誌」(25年)は「流言蜚語(りゅうげんひご)」を記録する。

 恐怖にかられた「自警団」らが朝鮮人らを襲った。政府の中央防災会議は2009年までにまとめた報告書で、震災の死者10万5千人のうち殺害によるものを1~数%と推計。殺害された朝鮮人は、地震直後の在日朝鮮人らによる「6600人」との調査や「5千人」とする推定があるが、正確な数ははっきりしない。亀戸では4~5日未明、警察署で騒いだ社会主義者ら計14人を憲兵らが刺殺した。

 社屋が焼失した東京朝日は25日、夕刊発行を再開したが、その日に発売禁止。無政府主義者大杉栄の災厄を報じたためだった。大杉と妻の伊藤野枝、おいの橘宗一を麹町憲兵分隊長の甘粕正彦らが16日に虐殺。27日付夕刊に載せた3人の棺(ひつぎ)の写真も殺した側の当局が問題とした。

 首都圏で惨劇と混乱が続くなか、阪神電鉄はある経営判断を迫られていた。鳴尾球場の後継策だ。専務の三崎省三は、かねて研究していた米国型の大野球場の建設に踏み切る。取締役会が正式に球場建設を決めたのは11月28日。「悲観のドン底から楽観への転機を」と三崎は24年1月、震災復興の展望を問う大阪の調査会社に答えている。

 阪神電鉄が米国へ派遣した丸山繁は、当時のニューヨーク・ジャイアンツの本拠地、ポログラウンドの設計図を入手。さらに「世界一」と称されたヤンキースタジアムが23年4月に完成。それらを参考に、設計担当の野田誠三(後の阪神電鉄社長)は、約8万人を収容する東洋最大の球場を構想した。

 24年は中国の暦法十干と十二支、それぞれが先頭の「甲子(きのえね)」の年だった。それにちなみ、巨大球場の名は「甲子園」と決まった。

 (編集委員・永井靖二)

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