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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 国内初のスポーツ生中継は1927(昭和2)年8月13日、阪神甲子園球場で開かれた第13回全国中等学校優勝野球大会で始まった。同10日付大阪朝日新聞夕刊は「つまり野球とラヂオの握手である」と評した。

 担当アナウンサーは大阪中央放送局(JOBK)の魚谷忠。大阪・市岡中(現市岡)野球部出身で、16年の第2回大会に7番三塁手として出場。決勝戦まで進み、初の外国籍選手のジョン・ダンらがいた東京・慶応普通部(現神奈川・慶応)に敗れた。26年6月入局の新人だったが、経歴を買われ起用された。

 「電波が語る『野球戦』/本邦最初の大会無線中継放送/JOBKの総動員で大成功」と、14日付大阪朝日夕刊は見出しでうたう。「魚谷アナウンサーは実戦をヂッと見つめながら『いまピッチャーがボールを投げます、ソラ投げました、バッターが打ちました、アッ大飛球です中堅が走ります、受けました受けました』と……場内雑観をまぢえてなかなかうまい」と、その語り口も伝えている。

 14日付同紙朝刊によれば、大会委員の佐伯達夫が放送局の臨時嘱託として戦況の概評を担当。13日のうちに、松山市のファンから「よく聞(きこ)えた。感謝す」という電報がJOBKに届いたという。また、大阪・北浜の証券関係者は「非常に面白かった、私は株屋だが、一(いっ)そ相場放送をやめて野球放送ばかりにしてほしい」と、同局へ電話した。

 対外的には好評な中継だったが、元NHK記者の橋本一夫は著書「日本スポーツ放送史」で別の側面を明かす。当時の放送は全て、監督官庁である逓信省の検閲が義務づけられていた。同書によれば、台本などの事前提出が不可能な実況中継を認めるにあたり、大阪逓信局は放送席に電波遮断機を持った係員を同席させた。「間違い」や「宣伝的な発言」をした際は、即座に放送を中断できたという。

 独壇場だった速報部門にラジオという新たなメディアが登場し、報道の現場も変容を遂げていく。(編集委員・永井靖二)

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