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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 《第5章》

 夏の甲子園では、航空機から開幕試合の始球式用のボールが投下される。今や恒例となった光景だが、その始まりは阪神甲子園球場より古く、会場が鳴尾球場だった1923年の第9回全国中等学校優勝野球大会にさかのぼる。

 「八機の乱舞/鳴尾の空の大偉観/天来の処女球で試合開始」と、同8月17日付大阪朝日新聞夕刊は報じた。本社機と、堺市の民間航空会社「日本航空輸送研究所」などの水上機による混成チームだった。

 操縦士の河内一彦と写真班員の長谷川義一が乗った本社機から、ボールが投下された。「万一観衆の頭上にでも落ちたら大変」と、長谷川はボールを何重にも白布で包んで紅白のリボンと小型パラシュートを付け、標的の球場を外した場合に備えて「拾得された方は鳴尾球場野球大会本部に……」と書いておいた。投じたボールは横風に流され、場外はるか遠くへ。拾った人が大会本部へ届けてくれて、なんとか始球式に間に合ったという(大会40年史)。

 朝日新聞社は同年1月、東京―大阪間で小型荷物の定期航空路を開設していた。20世紀初頭に発明された飛行機は第1次世界大戦で実戦に使われ急速に発達したが、その頃まで、民間では貨客の定期便はなかった。

 元日付紙面の社告で「我国(わがくに)交通界破天荒の計画」とうたう。期間限定で1月11日~3月末を第1期とし、同社が作った東西定期航空会が運営。毎週水曜に東京と大阪から離陸、双方が浜松市郊外の飛行場へ着陸し、積み荷を交換して引き返した。荷物は重さ1貫目(3・75キロ)以内で、東京、横浜、大阪、神戸と、浜松市内に限って配達。「航空輸送の実質を発揮し、併せてその宣伝普及を目的とする大奉仕」と「日本航空史」(日本航空協会編)は記す。

 野球大会直前の8月14日、第2期の輸送が開始。大正末~昭和初期、球児らの熱戦と航空界の挑戦とが同時に人々を沸かせていた。(編集委員・永井靖二)

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