[PR]

 ■ありがとう 夏100回 これからも

 時代が奈落へ向かうさなか、甲子園の熱狂は頂点を迎える。

 1933年8月19日、第19回全国中等学校優勝野球大会の準決勝第2試合。中京商(愛知、現中京大中京)と明石中(兵庫、現明石)の試合は、息詰まる投手戦となった。

 選抜大会で中京商を3安打無得点に抑えた明石中の剛腕、楠本保は不調で右翼へ回り、1学年下の中田武雄が登板。中京商の吉田正男との投げ合いでゼロが並んだスコアボードは十七回以降、板と竹で継ぎ足された。

 楠本は中田を援護しようと投球練習を始めたが、「相手投手1人に2人がかりとは何事か」と監督が止めた。その吉田は出塁した際、「牽制(けんせい)球を投げるな。俺は走らん。余分なエネルギーを使っちゃだめだ」と、中田に向かって叫んだという。

 大会本部から「勝負がつかなくても二十五回で打ち切る」と伝令が飛んだ。だが同回裏、中京商の無死満塁で二塁ゴロの送球がそれて三塁走者が生還。1―0のサヨナラ勝ち。吉田が336球、中田が247球、試合時間は4時間55分に及んだ。翌日の平安中(京都、現龍谷大平安)との決勝も吉田が投げて2―1で勝ち、中京商は空前絶後の3連覇を果たした。

 だが、過酷な運命が待っていた。延長二十五回のベンチ入り選手で明石中の楠本、中田、松下繁二、中京商の鬼頭数雄、神谷春雄、福谷正雄、加藤信夫、花木昇の計8人が後年に戦死。在学中に起きた社会の奔流が、成人後の彼らの命を奪った。

 3連覇の立役者の吉田は明治大学へ進学し、東京六大学で4連覇を含む5度の優勝に貢献。中国、南方などで6年間続いた兵役を生き抜き、戦後は社会人野球の藤倉電線で活躍。後年は中日スポーツ紙記者としてアマチュア野球を取材し、関係者から「お父さん」と慕われた。

 96年5月23日、82歳で死去。晩年、親しかった朝日新聞編集委員(当時)の岸本千秋(75)に「良きライバルの命を奪った戦争が憎い」と、目を潤ませて語った。(編集委員・永井靖二)

こんなニュースも