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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 第20回全国中等学校優勝野球大会は1934年8月13日、阪神甲子園球場で開幕した。すでに世相には10年前までの「大正デモクラシー」の面影はなく、「非常時」の色が濃厚だった。

 大会には、「至宝」と呼ばれた速球投手が登場した。

 京都商(現京都学園)の沢村栄治は、京津大会の京都予選準々決勝で23奪三振。この時、「ボールを当てた音だけでも聞かせてくれ」と相手応援席から声が飛び、六回、初の内野ゴロに歓声が上がったと、8月1日付大阪朝日新聞京都版は記す。

 甲子園では、京都商は14日の1回戦で鳥取一中(現鳥取西)に1―3で敗れる。試合前、「僕には討(うち)取る自信があります」(13日付同)と語った沢村だが、序盤の不調を突かれた。鳥取一中は沢村攻略のため、打撃練習で投手が通常より1メートル手前に立った。5カ月前、明石中(兵庫、現明石)に1―2で敗れた選抜大会で、沢村が「当てて来るチームが私としては一番こはい」(3月30日付大阪毎日新聞)と語った通りの展開だ。鳥取西の野球部史は「本校球史上、最高の金星」と記す。

 その鳥取一中は2回戦で、当時2年の川上哲治(後に巨人)がいた熊本工に1―8で敗退。熊本工は決勝で、エース藤村富美男(同阪神)を擁する呉港中(広島、現呉港)に0―2で敗れ、節目の大会は終わる。

 3カ月後の11月20日、静岡の球場に沢村の姿があった。

 沢村は夏の大会後に京都商を中退。全日本の一員として、来日した米大リーグ選抜チームと対戦していた。第10戦、17歳の沢村は、ベーブ・ルースらに真っ向勝負を挑む。ルー・ゲーリッグに本塁打を浴び0―1で敗れたが、9奪三振、被安打5と互角に渡り合った。

 そして同年12月26日発足の「大日本東京野球倶楽部(くらぶ)」(現巨人)に参加。プロ野球草創期のエースとして名をはせた。だが3度の召集を受け、44年12月に台湾沖で戦死。悲運の至宝が輝けた時間は、あまりにも短かった。(編集委員・永井靖二)

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