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 福島県内のメンタルクリニックを女性が訪れたのは、昨年のことだった。

 その夏、北朝鮮が弾道ミサイルを発射した。住民へ避難を呼びかけるJアラートが、北海道と東日本の11県に流れた。

 あれで福島第一原発の事故の記憶がよみがえってしまったのだという。当時と状況が違うことは分かっている。でもふるえが起き、一人になるのが怖い。女性はそう訴えた。

 東日本大震災から7年。

 被災地を歩くと、新しい公営住宅や区画整理された道路などが目に映る。ハード面の整備はめどがつきつつある。

 もう安心して暮らせるのか。いや、そうではない。

 現地では最近になって、再び恐怖や喪失感にさいなまれ、心身の不調を訴える人が現れている。深刻な事態だ。

 例えば宮城県では、小中学校で不登校になった子は3195人(16年度)にのぼり、前年度より362人増えた。なかでも中学生の不登校の割合は全国で最も高い。震災の影響を指摘する声は多く、村井嘉浩知事は先週の会見で「復興の進展に伴って、いろいろな新たな課題が出てきている」と述べた。

 ■ある精神科医の経験

 一見平穏に日々を送りながらも、胸のうちに異物をのみ込んでいる。福島県相馬市で精神科医をしている蟻塚亮二(ありつかりょうじ)さんは、そうした被災者の心の傷を放っておくと、ずっと先まで引きずることになると警告する。5年前まで仕事をしていた沖縄での経験に基づくものだ。

 そこで見たのは、戦争のことを思い出して、いまも眠れない夜があるといった悩みを抱える高齢者たちだった。

 花火の音を聞いたり東日本大震災の映像を見たりすると、当時がフラッシュバックする。足の裏の痛みを訴える女性は「死体を踏んだから罰があたった」と自分を責めた。

 学徒兵として動員された元県知事の大田昌秀さんは、亡くなる前の病床でうわごとを言った。「ほら穴を探しなさい」「早く弾を兵隊に」

 蟻塚さんたちが沖縄戦体験者を調べたところ、4割に心的外傷後ストレス障害(PTSD)の疑いがあった。

 あらがいようのない突然で圧倒的な力。目の前で理不尽に奪われる無数の命。自分だけが生き残ってしまったという自責の念。家族も、財産も、生活の基盤も根こそぎ奪われ、ふるさとに戻ることもできない。震災被害の特徴は、73年前と重なる。

 ■それぞれのペースで

 沖縄だけではない。広島、長崎、各地への空襲、引き揚げ時の悲劇。そして戦後も、日本は多くの災害に見舞われ、悲嘆の記憶を重ねてきた。

 それを自分の中にむりやり封じこめようとすると、人の心と体は悲鳴をあげる。

 被災地では、行政やボランティアの手助けを受けながら、心の傷を癒やす試みが続けられている。大変な経験をした者同士が語り合い、思いを共有することで、「つらいのは自分ひとりではなかった」と重荷を下ろせるようになる。

 忘れてならないのは、心の復興のペースは一人ひとり違うということだ。

 東北学院大の金菱(かねびし)清教授のゼミ生たちは、被災者が見る夢の話を集めた。

 津波で亡くなった友人と、その直前に校庭で別れた場面を何度も見て、汗ばむ若者がいる。一方で、震災直後は夢の中で「戻りたい」と訴えていた亡き妻が、「どこにも行かないよ」と言うように変わり、生きる力をもらったと話す男性がいる。

 ■「語る」ための年月

 そもそも体験を語っても仕方ない、と思っている被災者も少なくない。特に福島には、避難や賠償をめぐる対立や不信が重なる。家族や地元同士でさえ、いや家族や地元同士だからこそ打ち明けられない。重大な被害を受けた人に比べれば、自分に語る資格などない。そう感じている人に無理強いしたりすれば、傷をさらに深くする。

 沖縄大の吉川(よしかわ)麻衣子准教授には、印象に残る男性がいる。

 戦争体験を語りあう場に参加しながら、自らについては決して明かさない。6年近く集まりを重ねたある日、初めて口を開いた。軍人として親子の命を奪ってしまった、と。「苦しくて、でも誰にも言えなかった」

 語りたくない、でも知ってほしい。背負うものが重いほど、機が熟するまでに長い月日が必要なのだろう。

 心の傷が癒えるとは、亡くなった人を忘れ去ることでも、記憶にふたをすることでもない。被災者が、いまの自分を形づくる大切な一部として、過去を振り返れるようになること。そのためには、周囲による息の長い支えや見守りが必要だ。

 被災者一人ひとりの心のそばにいて、時が満ちたときに語れる相手となる。そういう存在でありたい。

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