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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 1919(大正8)年3月、日本の植民地支配に抗して、朝鮮の民衆が立ち上がった。三・一独立運動である。「独立万歳」を叫ぶ声が朝鮮全土に広がった。日本の中等学校にあたる高等普通学校の生徒たちも独立運動を担った。

 8月、元海軍大臣の斎藤実(まこと)が朝鮮総督に就任、それまでの武断政治から文化政治への転換を図った。

 2年後の21年7月5日、大阪朝日新聞朝鮮版に、第7回全国中等学校優勝野球大会の朝鮮大会開催を伝える社告が載った。

 16年には朝鮮総督府の横やりで中止に追い込まれたが、ようやく開催にこぎつけた。新任の総督府学務局長は「野球の奨励はしないが禁止することもしない」(10日付朝鮮版)という態度をとった。

 一方、日本人生徒が通う京城中の校長は、朝鮮の時局上、対抗試合は穏当でない、として開催に強く反対した(26年8月6日付朝鮮版)。

 大会の注意事項として次の一項が掲げられた。

 「応援は拍手の外之(これ)を禁ず但(ただ)し正式の応援歌は此(こ)の限(かぎり)にあらず」(21年7月6日付朝鮮版)

 応援の過熱を恐れたらしい。

 初めての朝鮮大会には京城中、仁川商、竜山中、釜山商が出場した。校長の反対にもかかわらず京城中が出場したのは、日本人だけの大会であることが考慮されたのかもしれない。

 大会は釜山商が優勝。朝鮮版の記事にはこうある。

 「特に吾等(われら)が感謝の禁じ得ないものは……近代団体遊戯の弊とする悪性の弥次(やじ)応援は全く一掃され、真に理想の応援が行はれたことである」

 「勝てるものは歓喜に泣き、敗れたものはその悲痛に泣く……体育競技の外にかかる純真の感激を見出(みいだ)すものがあらうか」(いずれも7月29日付)

 ジャーナリストの石橋湛山が雑誌「東洋経済新報」に「大日本主義の幻想」などの論説を書き、日本は植民地を放棄せよ、と主張したのは、この夏のことだった。

 (上丸洋一)

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